今回は前回の「切支丹の者斬罪之事」の続きである。前段は岐阜キリシタン小史(12)でも触れており、ご参照いただきたい。
(注1)尾張名所記云、(注2)名古屋橘町(注3)大佛榮國寺は國中の罪を犯せし者をいましむる獄門場なり、去る寬文五年三月此所に寺をいとなみ、淸涼庵と號し佛を安置し、千日念佛をはじむ。(注4)海邦名勝記云、慶長年中御城を築せ給ふ後千年の松原とて屠所なりしが、寬文の頃町屋に成て屠所は今(注5)土器野へ引移りぬ、耶蘇宗門等の徒專任餘人誅せられし跡とて一宇御建立あり、淸涼庵を(注6)中比瑞雲寺榮國寺と號す云々。
或書曰、家康公耶蘇宗御制禁、其砌は元和年中肥前國より駿河國へ罷越言上、(注7)吉利支丹之談義などは人を導き、其上に貧人には金銀を得させ、南蠻國の宗旨を弘め、後には國を奪ふ事加藤淸正きびしく御糺有之、後(注8)京都所司代板倉伊賀守工夫にて伴天連の一類の者二重俵に入て五ヶ所からげにして三條、四條、五條河原にさんづみにしければ、洛中見物人群集す、其一生合の者共一所につみかさなる、罪人(注9)善主麿を何程唱へても一味の飮食も天よりふらず地よりも湧ざれば、其日の未申の刻に到て皆宗門を轉びけり、此時より寺一札初りける、此節宗旨を改めざる輩は皆京、大坂、堺並諸國においても不殘斬罪にあふ者擧て數ふるにいとまあらずと。予按に(注10)美濃の大臼塚、(注11)尾張の大佛淸涼庵の昔物語も此砌の事にこそあらめ。
後附或日記云、元祿十丁丑年濃州可兒郡鹽方村百姓切支丹之者共御吟味の上笠松にて御仕置有之、此節(注12)大宇須の餘類丗五六人木曾川通り笠松の下、爰に埋てしるしの塚也。今尙大宇須塚とてしるしの塚に松あり。
(現代語訳)
『尾張名所記』によると、名古屋の橘町にある大佛榮國寺は、かつて国中の罪人を罰するための処刑場であった。寛文5(1665)年3月、この場所に寺が建てられ、「清涼庵」と名付けられて仏像が安置され、千日念仏が始めらた。
また、『海邦名勝記』によると、慶長年間(1596年〜1615年)に名古屋城が築城された後、「千年の松原」と呼ばれた場所が処刑場であったが、寛文の頃には町屋となり、処刑場は現在の土器野に移された。キリスト教徒などが処刑された跡地として、一つの寺院が建立され、当初「清涼庵」と呼ばれていたものが、後に「瑞雲寺」、「栄国寺」と名付けられたとのことである。
ある書物にはこう記されている。徳川家康公がキリスト教を禁制とした際、元和年間(1615~1624年)に肥前国から駿河国へやって来て、次のように進言した者がいた。「キリシタンの教えは人々を惑わし、その上、貧しい人々に金銀を与えて南蛮の教えを広め、やがては国を奪うでありましょう。これは加藤清正公が厳しく取り調べた通りです。」
その後、京都所司代の板倉伊賀守が考案し、宣教師の一味を二重俵に入れ、五箇所を縄で縛った上で、三条、四条、五条の河原に山積みにしておいた。すると、都中から見物人が大勢集まってきた。同じ罪を犯した者たちが一箇所に積み重ねられ、彼らがどれだけ「善主麿」の名を唱えても、天から食べ物が降ることも、地中から湧き出すこともなかった。その日の午後4時ごろになると、彼らは皆、宗門を捨ててしまった。この出来事をきっかけに、寺請証文が始まりました。
この頃、信仰を改めなかった者たちは、京都、大坂、堺、そして全国の至る所で、例外なく斬首の刑に処せられた。その数は数えきれないほどであった。私が考えるに、美濃の大臼塚や尾張の大仏清涼庵の昔話も、この頃の出来事ではないか。 (追記)ある日記には、元禄10(1697)年のこととして、こう書かれている。濃州可児郡塩方村のキリシタンの者たちが取り調べを受け、笠松で処刑された。この時、大宇須塚(大臼塚)にゆかりのある35、6人が木曽川沿いの笠松の下に埋められ、その印として塚が築かれた。今でも大宇須塚(大臼塚)と呼ばれ、目印の松が立っている。
(注1)実在の書物とされる。同名の書籍はあるが、『尾濃葉栗見聞録』に書かれているものではない。
(注2)現在の名古屋市中区橘。東別院の北側。
(注3)当時、丈六(220センチ)の阿弥陀如来像があったらしい。
(注4)実在の書物とされているが、確認できない。
(注5)現在の清須市土器野。名鉄本線の須ヶ口駅の南。
(注6)「そう遠くない昔」の意。
(注7)「キリシタン」は「切支丹」と音訳されることが多い。「吉利支丹」の「吉」は五代将軍綱吉の名にあることから避けられることが多かった。「尾濃葉栗見聞集」ではこの箇所で初めて使われた。
(注8) 1619(元和5)年、二代将軍徳川秀忠の命令により、京都でキリシタン52名が処刑された事件が「京都の大殉教」と呼ばれているが、この処刑を担当したのが、当時の京都所司代・板倉勝重(伊賀守)。岐阜キリシタン小史(12)を参照のこと。
(注9)イエス・キリストのこと。
(注10)現在の岐阜県笠松町に「大臼塚跡」がある。岐阜キリシタン小史(3)、岐阜キリシタン小史(20)を参照のこと。
(注11)名古屋市中区の栄国寺のこと。
(注12)「大臼」と同様にデウスのこと。「大宇須」と音訳することもあったのか。
文:笠松キリスト教会 K