しばらく続いた「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」が終わり、次の項に移る。今回は「切支丹宗門證文之事」と「切支丹の者斬罪之事」についてであるが、後者は次回以降も続く。
切支丹宗門證文之事
正事記曰、寛文元辛丑七月より切支丹宗門證文下々に至る迄取る事定り、海保彌兵衞其後松平三太夫に被仰付候、其後橫井十郞左衞門、山內治太夫寺社奉行に相成、紀伊國の寺手形の文段にて村人の起請文認め、其文言に切支丹のいやがる事有之、切支丹なれど則相分るよし。
正事記曰、寛文五巳正月晦日命令有之切支丹宗門帳一札及每年二月、十一月兩度相改之處に、今年より每歳二度二月、三月可相改旨被仰出候、寛文七丁未年切支丹宗門之族被斬罪故に御家中之輩へ拝領掾物云云。
(現代語訳)
キリシタンの証文のこと
『正事記』によると、寛文元(1661)7月から、キリシタン宗門の証文を下々の者まで提出させることが決まった。当初、この任務は海保弥兵衛が担当し、その後、松平三太夫が命じられた。さらにその後、寺社奉行の横井十郎左衛門と山内治太夫となり、紀伊国の寺で使われている手形を参考に、村人たちに起請文を書かせた。この起請文の文言には、キリシタンが嫌がるような内容が含まれており、これによってキリシタンであるかどうかがすぐに判明するようになったそうである。
『正事記』によると、寛文5(1665)年1月末日に、幕府から命令があり、キリシタン宗門帳を1通作成し、毎年2月と11月の2回、内容を確認するように定められていた。ところが、今年からは毎年2回、2月と3月に確認するようにとの新たな命令が出された。そして、寛文7(1667)年にキリシタン宗門の者が処刑されたため、その遺品が幕府の家臣に下賜されたという。
切支丹の者斬罪之事
寛文四辰年切支丹宗門之者斬罪あり、同五年二月切支丹故に(注1)葉栗郡(注2)丹羽郡知行替相成不殘御代官所支配に罷成候、(注3)編年大略に見えたり。
或る書云く、元祿四辛未年宗門帳に(注4)稻生村堂守一人洩れて及論談、松田六兵衞取扱にて向後堅相改候由にて相濟候。尾州(注5)郡方(こおりがた)、濃州郡方役所に前々より類門方と云ふ役名右御代官方に両人づつ有之候處、去る
天明年中(注6)所附の役所に罷成候以後、類門方役名無之、其役所々々にて時に應じて取扱ふよし。
(現代語訳)
キリシタンの処刑のこと
寛文4(1664)年にキリシタンの者たちが処刑された。翌年寛文5(1665)年2月には、キリシタンのために、葉栗郡と丹羽郡の領地替えが行われ、すべて幕府の代官所の支配下に置かれることとなった。これは『編年大略』に見える。
また、ある書物には次のように書かれている。元禄4(1691)年の宗門帳に稲生村の寺の堂守一人がキリシタンであることの記載漏れがあり、これが問題になった。しかし、松田六兵衛が担当して「今後厳しく改める」ということでこの件は解決した。尾張藩の郡方と美濃国の郡方役所には、以前から「類門方」という(キリシタンを専門に扱う)役職名があり、それぞれ2名ずついたが、その役職は廃止された。 しかし、天明年間(1781〜1789年)に「所附の役所」になってからは、「類門方」という役職名がなくなり、それぞれの役所ごとに必要に応じてキリシタン関連の事柄を扱うこととなった。
(注2)現在の愛知県江南市周辺。
(注3)詳細不明。
(注4)名古屋市西区に稲生という
地名はあるが、詳細は不明。
(注5)地方行政の一部で、郡奉行
や郡代が所属する役所。
(注6)特定の地域を管轄する役所
のことか。
島原の乱で天草四郎が用いたとされる陣中旗
(天草キリシタン館蔵)
(注1)現在の熊本県宇城市。
(注2)ヴァリヤーノ宣教師のこと。ヴァリヤーノ自身が九州各地を巡ったといに下ったという
う記録はあるが、熊本に行ったか否かは定かではない。
(注3)「正吏記」という書物は確認できない。後段に「正事記」と何回か書かれており、その誤りではないか。(「正事記」
については、別に記す予定である。)


[本の紹介]
帚木蓬生はばきぎほうせい 『守教』 (新潮文庫)
戦国末期から明治にかけての九州を舞台に、禁教下でもキリスト教の信仰を守り続けた
村人たちの姿を描いた歴史小説です。信仰と迫害の中で揺れる人々の葛藤と祈りが、
静かに力強く語られます。おススメです!!
文:笠松キリスト教会 K