今回で「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の箇所を終わる。今回の箇所に濃州塩村のキリシタン捕縛の記述がある。
其後二十四年を過て慶長十三丁未年(注1)肥前宇土郡八代には(注2)波伊耶牟が弟子有之耶蘇宗を弘め、其後宇土郡府内村寶光寺と云ふ禪刹を打破り宗門を弘む。此寺の住持信藏主東武へ下て訴へければ、御吟味の上御仕置あり、靜謐に及びけり。
其後十九年經て寬永三年の比、六十六部の類近江國徘徊して弘むる、是も程なく御仕置あり。
此時の御仕置は類門を一人づつ俵に入て首斗出して三十俵、五十俵つゝ積重ね、京都三條河原、大坂御城の馬場、堺七道の濱、此三ヶ所にて燒殺し、其內に宗門を改むる者は命助かりけり。何宗門と成て初て當寺旦那に紛なき印形差出す事初りぬ。
其後寬永十四年十月より肥前國島原と云ふ所に切支丹の一揆起て、天草四郞時貞を大將として合戰あり。翌年二月二十八日一揆の奴原三萬七千餘人誅戮有之、國々波立ず泰平の御代と治りけるこそ目出度けれ。委は天草軍記にしるす故に爰にもらしぬ。
(注3)正吏記曰、萬治四辛丑年四月朔日御旗本西尾權左衞門知行所濃州帷子庄鹽村に切支丹宗門の者共有之、尾張樣へ御賴有之、御奉行渡邊新左衞門、御足輕大將田邊四郞右衞門、御代官勝野太郞左衞門、御目付鳥居傳右衞門其外御目付兩人、手代捕手の者數十人被仰付名古屋を出て直に彼地に至り、切支丹の者一人も殘らず二十四人搦取、四日夜に連來る、又犬山の下五郞丸と云ふ所に伴天連一人有之、成瀨信濃守より搦取る、十人二十人所々より搦取來る者幾十人か不知、切支丹改有之悉御退治あり。
(現代語訳)
その後二十四年が経ち、慶長13(1608)年に肥前国宇土郡八代では、イエズス会のヴァリニャーノ宣教師の弟子がキリスト教を広めた。さらにその後、宇土郡府内村にあった宝光寺という禅寺を壊して、キリスト教を広めようとした。この寺の住職だった信蔵主が江戸へ行き、このことを訴えたため、幕府の調査の上で処罰が下され事態は収まった。
それから十九年後、寛永3(1626)年頃には、「六十六部」と呼ばれる巡礼者が近江国を巡って布教をしていたが、これもすぐに幕府の処罰を受けた。
この時の処罰は、信者たちを一人ずつ俵に入れ、首だけを出した状態で三十俵、五十俵と積み重ねて、京都の三条河原、大坂城の馬場、堺の七道浜の三ヶ所で焼き殺すというものであった。この中で、宗派を改めると言った者は命が助けられた。これにより、どの宗派に属しているかを証明するために、寺の檀家であることを示す印形を差し出すという制度が始まった。
その後、寛永14(1637)年十月から肥前国島原でキリシタンの一揆が起こった。天草四郎時貞を大将として合戦が始まり、翌年二月二十八日には、一揆の者たち三万七千人以上が討ち取られ、日本全体に波風が立たず、泰平の世となったのは喜ばしいことであった。詳細については『天草軍記』に記されているため、ここでは省略する。
『正吏記』によると、万治四年(1661年)四月一日、幕府の旗本である西尾権左衛門が支配する領地、濃州帷子庄かたびらのしょう塩村にキリシタンがいることがわかった。尾張藩に協力を求め、奉行の渡邊新左衛門、足軽大将の田邊四郎右衛門、代官の勝野太郎左衛門、目付の鳥居伝右衛門ら二名、手代捕方の者数十人が名古屋から現地に到着し、キリシタンを一人残らず二十四人を捕らえ、四日かけて連行した。また、犬山の下五郎丸という場所にいた宣教師一
人を成瀬信濃守が捕らえた。その他にもあちこちで十人、二十人と捕らえられ、捕方は数十人にいるかわからない。そして「切支丹改」が行われ、全員が処刑された。
(注1)現在の熊本県宇城市。
(注2)ヴァリヤーノ宣教師のこと。ヴァリヤーノ自身が九州各地を巡ったといに下ったという
う記録はあるが、熊本に行ったか否かは定かではない。
(注3)「正吏記」という書物は確認できない。後段に「正事記」と何回か書かれており、その誤りではないか。(「正事記」
については、別に記す予定である。)

島原の乱で天草四郎が用いたとされる陣中旗
(天草キリシタン館蔵)
文:笠松キリスト教会 K