今回も「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の続きであるが、今回取り上げる箇所は、史実と大きく異なることを先に記しておいた方がいいと思う。
本文中にある、1.信長がキリスト教を広めさせてしまったことを後悔した、2.信忠が、信長がキリスト教に寛容であったことに対して諫言した、3.秀吉が増田長盛と長束正家に命じて南蛮寺を破却させた、4.宣教師ヴァリニャーノが肥前に逃亡した、これらはいずれも歴史的事実に反する。
ということで今回の内容は、作者吉田正直が故意にキリスト教を貶めようという意図があるのではないかと思いたくなる。しかし、前回の耶蘇教に入信する様子の記述と同様に、当時の民衆がキリスト教をどのようにとらえていたかということでは興味深い。我慢してお付き合い願いたい。
天正三年五月十一日信長公京都を立玉ひて十三日に岐阜に到着し玉ふ。先年伴天連來りし時、(注1)文教院の諫を不用して耶蘇宗を思ひのまゝに弘めさせ今後悔なり。此儘にさし置きなば一天下難儀なる故に、南蠻寺を滅亡の沙汰に及びぬ。其節(注2)徳善院進み出て、國中耶蘇に歸依のモノ多し、南蠻寺を滅亡に及びなば門徒蜂起する事覺束なしと云ひ難し。依之滅亡の事止みぬ。然處信長公亡び給ふ故に、猶耶蘇宗流行に及びぬ。
然處太閤秀吉公自曰、(注3)增田右衛門尉、(注4)長束大藏兩人へ被仰付天正十三乙酉迄(注5)十八年の間耶蘇宗流行す。增田長束三千餘騎引率南蠻寺へ亂入、二人の伴天連、二人の(注6)伊留摩牟を召捕て網乗物に入る間に門徒不殘散々に逃失けり、二時斗に滅亡せり。生捕四人の者は本國へぞ歸しける、門徒の内改宗の者は其分に差置き、歸伏せざる者は不殘磔に行はれけり。扨南蠻寺執行(注7)波伊耶牟は先達而寺を逃げ肥前國に下り密に身を隱し居たりしが、年を經て天草に來て、重て此宗門を弘めけるよし。
(現代語訳)
天正三(1575) 5月11日、織田信長公は京都を出発し、13日に岐阜に到着した。以前、伴天連が来た時、文教院(織田信忠)の諫言を聞き入れず、キリスト教(耶蘇宗)を自由に広めさせてしまったことを、信長は後悔していた。このまま放置しておけば、日本国中が大変なことになると考え、南蛮寺を破壊しようと決めた。その時、徳善院(織田信雄)が前に出て、「国内にはキリスト教を信仰している者が多くいます。南蛮寺を破壊してしまえば、信徒たちが反乱を起こすかもしれません」と申し上げたため、南蛮寺の破壊は中止となった。しかし、信長公が亡くなったため、キリスト教はさらに広まってしまった。
天正13(1585)年、 豊臣秀吉公は、増田長盛と長束正家に命じ、18年間広まっていたキリスト教を取り締まることにした。増田と長束は3,000人余りの兵を率いて南蛮寺に乱入し、伴天連(宣教師)2人とイルマン(修道士)2人を捕らえ、網をかけた輿に乗せた。その間に信徒たちは一人残らず逃げ散ってしまい、南蛮寺は2時間ほどで破壊された。捕らえられた4人は本国へ送り返された。信徒のうち、改宗した者はそのままにされましたが、従わない者は全員、磔にされた。
さて、南蛮寺の責任者であったヴァリニャーノは、以前に寺を逃げ出して肥前の国に身を隠していたが、数年後には天草へ来て、再びキリスト教を広めていたということである。
(注1) (注2)文教院は信長の長男信忠のこと、徳善院は二男信のぶ雄かつのこと。
(注3)(注4) 増田長盛、長束正家ともに秀吉政権の五奉行。増田長盛は大和国郡山城主。長束正家は近江国水口城主。
(注5)18年間とは、吉田正直がキリスト教伝来の年と記している永禄11(1568)年から(岐阜キリシタン小史(21)参照)天正13(1585)年までのことを指していると思われる。
(注6) イルマン(修道士)のこと。
(注7)ヴァリヤーノ宣教師のこと。

「都の南蛮寺」(狩野宗秀筆)
余談だが上記の図は文化庁が運営する「文化遺産オンライン」というポータルサイトから借用した。すばらしいサイトなので是非ご一見あれ!!
https://bunka.nii.ac.jp/
文:笠松キリスト教会 K