岐阜キリシタン小史(23)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑤―

岐阜キリシタン小史(19)で、作者吉田正直のことについて少しだけ触れた。昭和7(1932)年に当時岐阜市笹土井町あった一信社出版部から出版された『尾濃葉栗見聞集』に詳しく書かれているのを見つけたので、あらためて記す。


吉田正直

初名彌太郎、後儀平治、または平蔵といった。元文5(1740)年に現在の岐阜県羽島郡岐南町徳田に生まれた。30歳のころ正直と改め、一成を通名とし、本姓を正村、吉田を通姓とした。かつて父の命によって、濃州加納藩士である吉田家に養子として迎えられたことがあった。また、先祖は舟岡山の戦い(筆者注:室町幕府管領細川政元の後継者争いに関わる戦い)で敗れた浪人で、「吉田一直」と名乗っていたため、これを家の姓として受け継いだのであろうか。明和4(1767)年、28歳の時、百姓をやめて、名古屋の流川町(現在の名古屋市中区新栄)あたりに住み、占いや加持祈祷を行って生活していた。文化4(1807)年に68歳で他界した。


以下は、「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の項の続きであるが、おどろおどろしい異様な情景である。

宗門に入る者はゴントウと云て、四十二ヶ國を表して四十二粒ある此珠數を以て惡念を思はず、唱文に曰、(注1)死後生天破羅韋僧有善主麿と唱へて一篇每に珠數を向へ繰り七日の間ゆだんなく晝夜是を誦すれば病苦平癒し、貧人には金錢を與へける故に日々繁盛し侍る。
宗門歸依のものは、一人も洩さず後世は善所へ赴く證據を見せける。即身成佛をあざやかに見すべしとて、耶利伊奴、計利護理に命じて三世の鏡を見せ、一人每に拜ませければ、惡人共は有難く思ひ、我身佛身と見え奇異の思ひをなし信仰彌增けり。
本尊は奥深きに厨子をかざり、戸帳内に懸けし繪像にて、二十斗の女郎のその姿は玉の如し。身に(注2)瓔珞を飾り左の懷に稚子を抱き乳を呑せたる風情の本尊也。此有難き事共傳へ聞て後には公家武家歷々の方々に至るまで歸依す。
本尊の母は耶と云ひ、子は善主麿といふ。至て信仰して耶蘇宗に成る時に本尊を拜ませ、其時に一人づつ内陣へ入れて鐵の針を植ゑたるわさびおろしの樣なる物にて、脊中をつき破り、血を出し、その血を兩手にぬりて拜禮して誓ふと云云


(現代語訳)
この宗門に入信する者は「ゴントウ」という儀式を行う。この儀式では42か国を表す42粒の数珠を使いながら、悪念を抱かずに「死後生天破羅韋僧有善主麿」という祈りの言葉を唱える。唱えるたびに数珠を一つ手繰り、これを7日間、昼夜怠らずに続けると、病気が治り、貧しい人にはお金が与えられ、毎日繁盛する。
この宗門を信仰する人は、誰もが死後は良い場所へ行けるという証拠を見せてもらえる。つまり「即身成仏」の様子をはっきり見せるために、「耶利伊奴」と「計利護理」という人物に命じて「三世の鏡」を見せ、一人ひとりに鏡を拝ませたところ悪人たちはありがたく思い、自分の姿が仏に見えたので、不思議に感じて信仰をさらに深めた。
本尊は奥まった場所に置かれた厨子の中に掛けられた絵である。20歳くらいの玉のように美しい女性が、体に瓔珞ようらくをつけ、左の懐に幼子を抱いて乳を飲ませている姿である。このありがたい話が伝わると、公家や武家といった身分の高い人々にまで信仰が広まりました。
本尊の母は「耶」、子は「善主麿」という。信者となってこの「耶蘇宗」に入信するとき、本尊を拝み、その際一人ずつ内陣に入り、鉄の針を植え付けたワサビおろしのような道具で背中を突き破り、血を出させます。その血を両手に塗って礼拝し、誓いを立てると言われている。
(注1) 「死後は天国に生まれる。天国(パライソ)には、善主麿がおいでになる」というような意味か。「善主麿」は、イエス・キリストのことを指すと思われる。北原白秋の『邪宗門』にもある。
(注2) 仏像や寺院内の装飾具。

文:笠松キリスト教会 K