前回につづき、『尾濃葉栗見聞集』「天上巻」にあるキリシタン関連の記録の三つ目である「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」について見ていきたい。
当時の宣教記録としてはルイス・フロイスの『日本史』が有名だが、それに対して『尾濃葉栗見聞集』は民衆側から見た記録であり、とても興味深い。作者の吉田正直は占術や加持祈祷を生業にしていた人物であっただけに、それに関わるような記述もある。
長い文章であるので、今回から数回に分けて扱い、前回同様に翻訳と現代語訳を記していく。現代語訳と註書は執筆者による。また、今回から段落の区切りも筆者が行う。
大臼塚由來之事
(注1)伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事
(注2)耶蘇宗来朝根元記を略記す。夫れ切支丹は人皇百七代(注3)正親町帝の御宇(注4)永祿十一年戊辰仲秋南蠻國より初て來朝す。本より海上(注5)三萬七千餘里也、西南に當る國なり。其國の奥に耶蘇國といふ所に
(注6)宇留ウル加武カム伴天連バテレン、不羅牟伴天連とて二人者(注7)比佐宇志也宇といふ法術に達し、海を山となし、山を海となし、その外法術を行ふ。
宇留加武伴天連といふもの長崎へ着せしを、信長公近江國安土の日蓮宗の妙法寺へ迎へ入れ給ふ。其姿背は(注8)一丈計、頭は甚小く、顔の色赤く、眼丸く、眼中黄色なり、鼻高く、耳長く肩に及ぶ、口は耳に及ぶ程廣し、齒は馬の如く白き事雪の如し、手足の爪は熊に似たり、髪髭の色は鼠色なり。装束は(注9)阿尾と云ふ物のよし、毛氈のごとく成るものにて、裾短く袖長し、左前に合せて胸に帶をし、着物の躰は蝙蝠の羽をひろげ飛ぶがごとし、其形相人とは更に思はれず。信長公御前へ召出され、腰を二重にして犬這ひに成て兩足の先を揃へて鳩のうめくがごとく何やらん言上す。
(現代語訳) キリスト教宣教師が近江安土に来訪し、南蛮寺を建立しその後滅ぶに至る経緯
『耶蘇宗来朝根元記』について簡略に記す。キリシタンは、第107代の正親町天皇の時代、永禄11(1568)年の戊辰の秋に、南蛮国から初めて日本にやってきた。本来、南蛮国は海上の距離が3万7千余里も離れた南西の方向にある国である。その国の奥深くに「耶蘇国」と呼ばれる場所があり、そこに「宇留加武」と「不羅牟」としいう2人の伴天連がいた。この2人は「比佐宇志也宇」という不思議な術に長けており、海を山に変えたり、山を海に変えたりして、その他にも術を行った。
「宇留加武」という伴天連は長崎に到着し、信長公(織田信長)は近江国安土の日蓮宗妙法寺へ彼を迎え入れられた。その姿は身長が約3メートルもあり、頭は非常に小さく、顔色は赤く、目は丸く、その瞳は黄色だった。鼻は高く、耳は肩にまで届くほど長く、口は耳に達するほど大きかった。歯は馬のように白く、雪のように輝いていた。手足の爪は熊のものに似ており、髪やひげの色は鼠色だった。彼の衣装は「阿尾」と呼ばれるもので、毛氈のような材質で作られていて、裾が短く袖が長い。左前で合わせて胸元に帯を巻き、その衣服はまるで蝙蝠が羽を広げて飛ぶような出で立ちであった。その姿はとても人間とは思えないものだった。信長公の御前に召し出された際、彼は腰を二重に折り曲げて犬が這うような姿勢となり、両足の先を揃えて鳩がうめくような声で何かを申し上げた。
(注1)伴天連はポルトガル語のpadreが訛ってできた言葉。padreはカトリック教会の神父にあたる。伴天連は司祭の職位をもっておりミサを執り行い、洗礼や告解といった秘跡(サクラメント)を授けていた。伴天連の他に、イルマン(伊留満)という者もいたが、彼らは司祭に叙任されていない修道士であった。
(注2)『耶蘇宗来朝根元記』は江戸時代に実際に存在した書物らしいが詳細は不明。
(注3)正親町天皇(1517~1593、在位は1557~1586)
(注4)永禄11年は西暦1568年。この年、織田信長は足利義昭を擁して上洛を果たしている。
(注5)三萬七千餘里とは、14万8千キロメートルであり、これは地球の赤道上3.7周分にあたる。誇張表現である。
(注6)宇留加武伴天連とは、オルガンチノ宣教師のことかと思われる。音訳の「オルガン」よりは「ウルカン」の方が原語に近い。「宇留加武」の他に「宇留岸」という当て字もある。オルガンチノが信長と面談したということからも裏付けられる。ルビがふられているのは、この「宇留加武」だけで、他の人物にはない。
(注7)「比佐宇志也宇」は詳細不明。
(注8)一丈は10尺で約3メートル。
(注9)「襖あお」のことか? 脇が開いて襴のない上着。武官や高位公家の礼服・朝服として使用。
文:笠松キリスト教会 K