岐阜キリシタン小史(22)―『尾濃葉栗見聞集』のこと④―

前回疑問に思いつつも紙幅に余裕がなく、記せなかったことがある。『尾濃葉栗見聞集』が書かれたのは享和(1801)年である。信長が岐阜や安土で宣教師たちと謁見したのは1570年代のことであるから、『尾濃葉栗見聞集』が書かれる約230年前のことである。幕府のキリシタン禁教政策が続く中、民衆の間で230年前の宣教師たちの働きがずっと記憶され続けていたのだろうか。また、『尾濃葉栗見聞集』にはキリスト教伝来の年は正親町天皇の時代、永禄11(1568)年であると記されているが(「岐阜キリシタン小史(21)参照」)、そのことも記憶されていたのであろうか。興味深い。
さて、前回に続き、「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」について見ていきたい。


「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」続き

而後評議巳に究りぬ、依て菅谷九右衛門に被仰付京都四條の(注1)坊間に(注2)方四町の敷地並寺領とて五千貫を賜れり、七堂伽藍成就して金銀の額を打ち、美を盡し永錄寺と稱して宇留加武入院して南蠻の調度を寺中に飾る。叡山より内裏へ奏文して永錄寺を削りて南蠻寺改める。夫より國中流布して貴賤群集日を經て止まず。
又伴天連三人來朝、(注3)不羅天、計利古利、耶利伊須といふ者(注4)三世を鏡にうつして見せ、人をすゝめ、又妙藥をのませて忽に病氣全快なして同流となす。又貧苦を助て金銀を與へ、又宇留加武と同じ(注5)耶利伊奴、計利護理の二人の醫來る、兩人とも背の高き衣裳の躰常の唐人のごとし、顏付は猿のごとく鼻低く、上唇長く、鳥の嘴の如し、尤言語は通ぜず。
然れ共藥種の苗を植ゑる所は江州伊吹山に登り、(注6)五十町四方切平げ是を藥圓として三千種を植ゑる、是より後に唐種の藥草艾日本国中にはびこりける。南蠻寺の結構なる事金銀珠玉を以て荘厳し、天人も影向、菩薩も爰に天に降り玉ふかとて馳來る諸人群集なす。本堂に本尊なく、但し金銀珠玉旗天蓋をかざり立て名香の薰芬々するのみなり。


(現代語訳)その後、評議がまとまり、(信長公は)菅谷九右衛門に命じて、伴天連たちに京の四条の町の中に方四町の土地を与え、さらに寺領として5,000貫を寄進した。ここに立派な伽藍が建てられ、金銀で飾られた額が掲げられた。この寺は当初「永禄寺」と名付けられ、宇留加武が住み込み、南蛮から持ち込まれた調度品が飾らた。比叡山延暦寺が朝廷に奏上したことで、「永禄寺」は「南蛮寺」と改名された。これが国中に広まり、身分の上下を問わず、多くの人々が日々参詣に訪れ、その賑わいは尽きることがなかった。
さらに、不羅天、計利古利、耶利伊須という3人の宣教師が来日した。彼らは三世を鏡に映して見せたり、不思議な薬を与えて病気を治したりすることで人々を惹きつけ、キリスト教の信者にした。また、貧しい人々には金銭を与えて助けた。宇留加武と同じく、耶利伊奴、計利護理の2人の医者も来日した。2人とも背が高く、衣装は通常の中国人とは異なり、顔は猿のように鼻が低く、上唇が長く、鳥のくちばしのような顔立ちをしていた。ただし、彼らの言葉は日本人には通じなかった。
しかし、彼らが薬の種を植える場所として、近江の伊吹山に登り、およそ五十町四方もの土地を開墾して薬草園を造った。そこには3,000種もの薬草が植えられた。これ以降、中国から伝わった薬草である「艾よもぎ」が日本中に広まることになった。南蛮寺の建築は非常に壮大で、金銀や宝石を使って荘厳されており、天人が降りてくるのではないか、菩薩がそこに舞い降りるのではないかと噂され、多くの人が集まってきた。本堂には本尊はなく、ただ金銀や宝石、旗や天蓋が装飾され、名高い香の薫りが辺りを漂わせるのみであった。
(注1)町の中、市中の意
(注2)四町四方のこと。一町は109メートル、四町は436メートル。
四町四方は京都御所や東寺よりも広い。誇張表現か。
(注3)誰のことか不明。
(注4)仏教用語で過去、現代、未来のこと。
(注5)誰のことか不明。
(注6) (注2)同様に、五十町とは5.45キロメートル。五十町四方とは
29.75平方キロメートルで、感覚的には岐阜市の中心部ぐらいの広さか。
これも誇張表現かも知れない。

文:笠松キリスト教会 北島智宏