―秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令①―
今回と次回は岐阜のことから離れて、日本で出された、いわゆる「禁教令」について記してみたい。
私は以前より織田一族によって奨励されたキリスト教が、今の日本でなぜ疎んじられているのかずっと疑問に思ってきた。キリスト教は秀吉や江戸幕府によって禁教の扱いを受け、厳しい弾圧を受けた。そのことよってキリスト教に対する潜在的な忌避感が日本人に生まれた。日本にキリスト教が根づかない大きな要因はそこにあるのでいないか。
しかし、以下に記す数々の禁教令は時の権力者たちの政治的な思惑から出されたもので、主イエスの御教えとはまったく関係がない。簡単に禁教令のそれぞれの内容と、出された経緯、その後の影響等を記す。
①【正親町天皇】宣教師追放令1565(永禄8)年と1569(同12)年
宣教師を京都から追放するという趣旨であったが、キリシタンを保護しようとした織田信長を牽制することが目的であったのではないか。➡キリシタンの活動にはほとんど影響はなかった。
②【豊臣秀吉】バテレン追放令 1587(天正15)年
秀吉の側近であり、天台宗の元僧侶である施薬院全宗の讒言を受けて出されたが、その理由は諸説ある。(ⅰ)外交権、貿易権を自分自身に集中させるため。(ⅱ)九州で日本人の奴隷売買がされているとの情報があり、それを禁止させるため。(ⅲ)キリスト教徒による神社仏閣への迫害。➡しかし、この追放令を秀吉自身が無視、実際には秀吉はイエズス会宣教師を通訳や貿易仲介人として重用した。
③【豊臣秀吉】キリスト教禁教令 1596(慶長元)年
スペイン船サン=フェリペ号事件が引き金。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、四国土佐沖に漂着した。「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」との船員の発言により秀吉は大規模な弾圧に踏み切った。しかし、その裏には当時、朝鮮・中国への出兵が頓挫しかけており、その損失の穴埋めのためにサン=フェリペ号に積まれた財宝が目当てであったともいわれている。➡秀吉は禁教令を出し、1597年2月、日本人キリシタン26名を処刑した(日本二十六聖人)。これは日本の時の権力者の命による初めての処刑であった。
④【江戸幕府】慶長の禁教令 1612年(慶長17)年
江戸幕府は当初キリスト教に対して弾圧と呼べるような政策はとっていなかったが、ドミニコ会などの新しくやってきた宣教師たちは幕府の体制下に組み込まれることを拒否、幕府も次第に態度を硬化させていた。1609年に発生したマードレ・デ・デウス号事件の処理を巡ってのキリシタン大名有馬晴信と目付役岡本大八(同じくキリシタン)による収賄事件に端を発する。➡江戸、京都、駿府などの幕府直轄領における教会破壊と布教禁止を命じる。家臣団のキリシタン捜査も行われ、該当者は改易処分となった。
⑤【江戸幕府】バテレン追放令 1613年(慶長18)年
臨済宗の僧侶で「黒衣の宰相」と呼ばれた以心(金地院)崇伝が起草した。キリスト教を日本宗教(仏教、神道、儒教)の敵とし、キリスト教を禁止。➡キリシタンは国外退去させられ(高山右近も)、長崎・京都の教会が破壊される。以後、これが幕府の基本政策となる。
(次回に続く)
文:笠松キリスト教会 K