岐阜キリシタン小史(16)―尾張の五聖人のこと③―

日本二十六聖人のことを書いているが、参考にしている『日本26聖人者物語』(ゲルハルト・フーバー著、アンジェロ・アショフ訳 聖母文庫)のまえがきの中に、次のように記されていた。「…さまざまな国の人を含んだこの集団は、言ってみれば、宣教に従事する人たちの国際協力団体のようであり、まさしくカトリック教会を代表していたといってよいでしょう」(アンジェルス・アショフ)。明治維新後や第二次大戦後の日本にたくさんの宣教師が来日した。同じことがこの時代にもあったのだと思わされた。 この本のなかに、26人の国籍や所属修道会、職務が簡潔に書かれているので、あわせて紹介したい。

国籍スペイン4名、メキシコ1名、ポルトガル1名、日本20名

所属修道会・職務

フランシスコ会6名(司祭3名、修道士3名)

在世フランシスコ会員と協力者17名(伝道士5名、伝道士見習2名、奉仕者7名、京都・大阪の修道院に住み込みの手伝いをしていた少年3名)

イエズス会修道士3名

尾張の五聖人について、ルドビコ茨木について前回までに随分紙幅を割いてしまった。他の4人について記してみたい。(下の肖像は『日本二十六聖人画像』岡山聖虚画。数字は、長崎・西坂の二十六聖人記念碑の右からの順番)

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岐阜キリシタン小史(15)―尾張の五聖人のこと②―

前回に続いてルドビコ茨木のことから始めたいと思う。

ルドビコ茨木[1585-1597.2.5]

 二十六聖人のひとりで、最も若い殉教者。尾張出身で「尾張の五聖人」のひとり。

 同じ殉教者のパウロ茨木とレオン烏丸は叔父にあたる。1596年京都のフランシスコ会の教会で受洗。教会とその付属の病院で手伝いをしていた。1596年12月9日、捕らえられ、長崎で殉教。12歳であった。

聖ルドビコ茨木像
(長崎・浦上天主堂)
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岐阜キリシタン小史(14)―尾張の五聖人のこと①―

ルドビコさまは 十二才

耳をそがれて しばられて

歩む千キロ 雪の道

ちいさい足あと 血がにじむ

これは「長崎の鐘」で有名な永井隆によるものである。ここに歌われているのが、二十六聖人の一人、ルドビコ茨木である。処刑されたとき、わずか12歳…。

1597年2月5日、長崎・西坂で、フランシスコ会の神父や日本人の信徒など26名が十字架につけられ、処刑された。時の権力者、太閤秀吉の命によるものある。この事件の背景は「岐阜キリシタン小史」(7)に記したので、参照していただきたい。その中の一人が、ルドビコ茨木であった。処刑された26人中では最も若かった。

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岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―

岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―

 日本各地にはキリシタンの殉教の地、遺跡が数多くある。いったいどれくらいあるのだろうと、ネットで調べたことがあったが、とても数えきれなかった。殉教で記憶に残るのが、映画『沈黙』(遠藤周作原作)の中で、キリシタンが「雲仙地獄の熱湯漬け」や「水磔(すいたく)」の刑を受けるシーンであった。残酷な処刑方法でとても見ていられなかったことを思い出す。

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岐阜キリシタン小史(8)

 秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令②―

 前回に続き、引き続き禁教令について記してみたい。

⑥【江戸幕府】鎖国令(二港制限令)と禁教令 1619(元和5)年

 二代将軍秀忠によるもの。キリシタンの投獄、処刑が徹底的に行われた。➡その後、日本に潜入しようとしていた宣教師2名が発見され、既に捕らえられていた宣教師やクリスチャン、匿っていた者たちの計55名が処刑された(元和の大殉教)。

⑦【江戸幕府】島原の乱後

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岐阜キリシタン小史(7)

 秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令①

 今回と次回は岐阜のことから離れて、日本で出された、いわゆる「禁教令」について記してみたい。

 私は以前より織田一族によって奨励されたキリスト教が、今の日本でなぜ疎んじられているのかずっと疑問に思ってきた。キリスト教は秀吉や江戸幕府によって禁教の扱いを受け、厳しい弾圧を受けた。そのことよってキリスト教に対する潜在的な忌避感が日本人に生まれた。日本にキリスト教が根づかない大きな要因はそこにあるのでいないか。

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