これまで織田信長とキリスト教、そしてイエズス会宣教師との関わりについて詳しく述べてきた。今回は、信長の嫡男であり後継者である織田信忠と、キリスト教との関わりについて記していきたい。
織田信忠は、1557(弘治3)年、織田信長の長男(嫡男)として尾張国に生まれた。幼名は奇妙丸である。1572(元亀3)年、近江国での対浅井氏戦で初陣を飾り、その後は伊勢長島平定や長篠の戦いなど、信長が進める主要な戦役に従軍して軍功を重ねた。1575(天正3)年、19歳の時に信長から織田家の家督を譲られ、同時に美濃・尾張の両国を相続して岐阜城主となった。翌1576(天正4)年には従三位左近衛中将に叙任され、名実ともに織田政権の後継者としての地位を確立した。
信長が安土城へ移った後、信忠は岐阜を拠点として東国方面の軍事・内政を一手に担い、1582(天正10)年の甲州征伐では総大将として武田氏を滅亡させるなど、優れた指揮能力を発揮した。信忠の統治は理知的かつ着実であり、父・信長の革新性を引き継ぎつつも、家臣団や領民に対しては節度ある態度で臨んだ。岐阜におけるキリスト教や宣教師への対応も、こうした彼の冷静な統治姿勢の一環として捉えることができるだろう。
織田信忠とキリスト教、そして岐阜の地を巡る関わりは、父・信長の影に隠れがちである。しかし当時の宣教師の記録やイエズス会年報を紐解くと、そこには若き城主としての節度ある振る舞いと、異文化に対する比較的冷静な態度が浮かび上がってくる。










