主日礼拝メッセージ 使徒信条の信仰14「聖徒の交わり」2025/10/19

聖書箇所:ヨハネの手紙第一 1章1-10節
鴨下直樹牧師

 

 使徒信条の信仰をよく理解していただきたいと願いながら、少しずつ使徒信条の聖書箇所からみ言葉を聞いてきまして、今回で14回になります。今日のところは使徒信条の「聖徒の交わり」という部分です。

 この礼拝に集っておられる方々は、この笠松教会で洗礼を受けられた方が少なくありません。けれども、他の教会で洗礼を受けて、引っ越しや、結婚や、あるいは何らかの事情でこの笠松教会の礼拝に集っておられる方もあると思います。あるいは、まだ洗礼を受けておられない方もおられます。今この礼拝に、実にさまざまな地域で生活され、また信仰に導かれた方々がここで一つにされているという不思議さを感じます。生まれた地域も違えば、信仰に導かれた教会も違う、あるいは、さまざまな異なる考え方をしている人たちが、こうして一つの教会にされています。これが、「聖徒の交わり」という言葉で表現されている教会の一つの姿です。

“主日礼拝メッセージ 使徒信条の信仰14「聖徒の交わり」2025/10/19” の続きを読む

主日礼拝メッセージ ノアの箱舟2「戸が閉ざされる前に」2025/10/12

聖書箇所:創世記7章1-16節
鴨下直樹牧師

創世記7章1-16節 「ノアの箱舟2 戸が閉ざされる前に」2025.10.12

 昨日から少しずつ雨が降り始めていまして、今週いっぱいは雨が続くそうです。毎日毎日雨がつづくと本当にいやな気持になります。私の父が、かつて小さな本を書きました。『ジュニアのはこぶね』というタイトルの本です。父が中学生の頃、雨が降って体育の授業ができなかった時に、当時の学校の先生が「今日はお話をしてあげます」とノアの箱舟の話をしたのだそうです。その経験が、この本のタイトルになったというわけです。父が若い時に聞いた、ノアの箱舟の話はとても印象的だったようです。後になって父が信仰をもつようになり、聖書の物語だと知るようになってようやく、その先生はクリスチャンであったかと気がついたようです。若い時、雨が降った時に、ノアの箱舟の話を聞いた。それは、父にとって衝撃的な話だったようです。だから覚えていたのだろうと思うのです。

“主日礼拝メッセージ ノアの箱舟2「戸が閉ざされる前に」2025/10/12” の続きを読む

LOVE JAPAN 2025 東海ツアー オンギジャンイ コンサート  

10月10日(金)19:00〜20:30

オンギジャンイのコンサートが開催されました。

笠松ではなんと19年ぶり🤩

ウィークデイの夜でしたが、たくさんの方がお越しくださいました。

会場の皆さん全員で主を賛美し、盛り上がりました。感謝‼️

芥見キリスト教会

岐阜リバーサイドチャーチ

オンギジャンイHP

岐阜キリシタン小史(36)―大垣藩戸田氏鐵(うじかね)と島原の乱―

前回、大垣藩の初代藩主であった石川康通(やすみち)(1554-1607)について触れた。康通は晩年にキリスト教に入信し、亡くなる前年に洗礼を受けた。
康通の死後、石川家は2代家成、3代忠ただ総ふさと続くが、忠総の時に大坂の陣の功績により、豊後日田藩へ移封となった。その後、大垣藩では藩主が短期間に交代を繰り返す時代が続いた(石川家 → 久松松平家 → 岡部家 → 再び久松松平家)。
寛永12(1635)年、この流れは一変する。摂津国尼崎藩より、徳川譜代の戸田氏鐵(1576-1655)が10万石で入封した。氏鐵は尼崎藩主時代、築城技術を認められ、大坂城の改築工事の総奉行に任命されたことがあった。また、4代将軍徳川家綱誕生時の「へその緒を切る役目」を任されるなど、彼の徳川幕府内における信頼の厚さは、きわめて堅固なものであった。
寛永14(1637)年、九州で島原の乱が勃発する。乱の原因は、島原藩(藩主松倉勝家)、唐津藩(藩主寺沢堅かね高たか)による苛烈な重税と、幕府が推し進める非情なキリシタン弾圧であった。幕府は、乱の鎮圧のため板倉重昌(重昌の父勝重は京都所司代在任中に「京都大殉教」(元和5(1619)年)に関与)らを派遣し、九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。

“岐阜キリシタン小史(36)―大垣藩戸田氏鐵(うじかね)と島原の乱―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(35)―大垣のキリシタン―

岐阜県西濃地方のキリシタンについては、これまで詳しく触れる機会がなかった。
西濃地方にもキリシタンがいたことは、『尾濃葉栗見聞集』に記録が残されている(「岐阜キリシタン小史(20)」参照)。また、「岐阜キリシタン小史(11)」の年表の中で、天正10(1582)年と慶長11(1606)年の出来事について言及したが、それ以外の記事を見つけられなかった。


今回は、最初にこの慶長11(1606)年の出来事に注目する。
大垣藩の初代藩主石川康通(1554-1607)は、徳川家康の重臣であった石川家成の長男として生まれ、徳川譜代大名として重要な地位にあった。また、康通の従兄には石川数正(後に豊臣家に仕える)がおり、彼はキリスト教に関心を持っていたとする説があるなど、石川家とキリシタンとの関わりは以前からあった可能性がある。康通は関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6年(1601年)に美濃大垣藩の初代藩主として5万石で入封した。
慶長11(1606)年、康通は正式にキリスト教に改宗し、「フランシスコ」という洗礼名を授かっている。しかし、改宗の翌年慶長12(1607)年に病のため亡くなった。その後、彼の妻が京都でキリシタンの支援者になったという記録が残されており、康通の死後も石川家とキリスト教徒の関係が続いていたことが窺える。
康通が受洗した同年に、稲葉政貞夫妻とその家臣50名も受洗している。稲葉家は将軍家光の乳母春日局とゆかりのある家であり、政貞は春日局の夫・稲葉正勝の養子である。彼は徳川家康に仕えて御小姓となり、美濃国十七条(現在の岐阜県瑞穂市十七条)で千石を拝領した。その後、尾張藩主徳川義直の家臣となっている。
そして、今回はもうひとつの別の出来事を紹介する。下記は『大垣宿問屋留書』の中の記事である。

“岐阜キリシタン小史(35)―大垣のキリシタン―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(34)フロイスの見た岐阜城と岐阜の町

過日、今年(2025年)7月に岐阜公園内にオープンした「岐阜城楽市」に妻と初めて出かけた。そして隣接する岐阜市歴史博物館で、開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」を見学した。岐阜城というと、私は金華山山頂の天守を思い浮かべるが、この特別展では山麓にあった信長の居館跡の発掘についても詳しく紹介されており、大変興味深く観覧した。(図録もすばらしい!! ぜひ購入すべし!!)
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、この山麓居館に訪れたのは永禄12(1569)年のことであった。フロイスは京での伴天連追放令を受け、織田信長に庇護を求め岐阜にやってきた。フロイスはその著書『日本史』のなかで、信長の御殿について次のように記している。


「ポルトガルやインド、日本の他の地域で見てきた宮殿や居館の中でも、信長の御殿は精巧かつ豪華で、最も優れていた。御殿は非常に高い山の麓にあり、外側には巨大な石垣が築かれていた。入口には儀礼や演劇を行う屋敷があり、一階には15〜20の座敷が並び、5〜6つの庭園が設けられていた。池には魚が泳ぎ、中央の石には花や草木が生えていた。二階には信長の奥方や侍女たちの部屋があり、町側にも山側にも縁と見晴らし台があった。山の高さに達する三階には、非常に静かな茶室がいくつか設けられていた。三階や四階の見晴らし台からは町屋が一望できた」。


“岐阜キリシタン小史(34)フロイスの見た岐阜城と岐阜の町” の続きを読む