主日礼拝メッセージ 使徒信条の信仰15「罪を赦す神の恵み」2025/11/16

聖書箇所:ローマ人への手紙 3章21-30節
鴨下直樹牧師

 

 今日は、使徒信条の最後の方にある「罪の赦し」という告白を一緒に考えていきたいと願っています。

 それで、今朝はローマ人への手紙の3章を開きました。このローマ人への手紙3章のことをかつて改革者ルターは「ローマの書の中心、いや、前聖書の中心と見て良い」と語りました。こう言ったのはルターだけではありません。エミール・ブルンナーというドイツの神学者がおりました。この人は、今から60年ほど前のことですけれども、日本の国際基督教大学で教鞭をとったことがあります。このブルンナーがこのローマ3章21節から26節までのところから大学の礼拝で説教した時にも、「新約聖書の中心」という題で説教しています。それほどに、この箇所は聖書の中心的な内容を語っている箇所なのです。そして、まさにその中心で何が語られているかと言うと、「罪の赦し」をここでパウロは語っているのです。

パウロはこの3章の前のところでは、神の戒めである律法を通して、人間は神の前に正しく生きることができないことを明らかにしてきました。3章の10節では「義人はいない、一人もいない」と語っています。こう言って、神の目にかなう生き方ができるものは、一人もいないのだと言うのです。
誰しも自分の生き方が間違っていないと思いながら生きてきたとしても、神の前に出るならば、誰ひとりとして、「見て下さい、私はこんなにちゃんと生きてきました」と神の前誇ることはできません。神の前に出るなら、人はただ自らの惨めさを知ることしかできないのです。なぜなら、神はそれほどまでに完全なお方だからです。
ドイツのミュンヘンという大きな街に、アルテ・ピナコテークという有名な美術館があります。キリスト教美術が好きな人は、誰もが一度は尋ねてみたいと思うような、そんな美術館です。私たちがまだドイツにいた時のことですけれども、マレーネ先生と一緒に、このミュンヘンの街を訪ねたことがあります。ちょうど、マレーネ宣教師の宣教報告のために、ミュンヘンの教会に呼ばれました。教会での宣教報告は日曜の礼拝の時です。私たちは前日の土曜日から行きましたので、少し街を観光する時間がありました。私はどうしてもこの美術館を訪ねたかったのですが、妻とマレーネ先生は別のところを見たいというので、別々に行動することになりました。私に与えられた時間は、一時間半。町の中心から美術館までは少し離れているのですが、走ってここにたどり着きました。たどりついてもあまりにも大きすぎて入口が分かりません。イライラしながら、ようやく美術館の中に入りますと、そこは私には天国かのように思えました。素晴らしい絵がいくつもかかっているのです。日本にその絵がくるなら、一枚くるだけでも、大変な行列ができるというような絵ばかり、何百という数がかかっているのです。

そこにあるのは、どれも本物です。それまで、本や雑誌でしか見たことのない絵が目の前に掛っている。大抵の人はその美術館に入ると、丸一日かけてみるところですが、私には一時間半しかありません。実際に絵を見ることのできる時間は約一時間ほどです。実際にゆっくり味わうことができません。幸い写真を撮ることが許されていましたので、一枚一枚ほとんど全ての絵の写真を撮ってきました。広い美術館を人だけ忙しそうに、次々に眺めている姿は、きっと他の人から見ればあわれな日本人に見えたに違いないのです。けれども、この1時間という時間は私にとっては本当に幸せな時間でした。

 今まで本でしかみたことのない絵が、目の前にすることのできる感動は言葉になりません。人は「本物」の前に立つとき、そこにたたずむことしかできないのかもしれません。それが、本物のもつ力です。なぜ、私がこんな話をしているかといいますと、私たちが本当の神の前にたたないかぎり、本当の人間の生き方がよく分からないということを言いたいのです。私たちは、どう生きることが自分の人生を豊かに生きることになるのか、分からないに、手探りの状態で生きています。ですから、自分で自分の生き方に合格点を出すほかありません。これでいいのだと考えるほかないのです。しかし、そのように自分で自分の生き方を肯定する生き方をするのは、神の前に出る時までです。神の御前に出る時、真実な方の前に立つとき、私たちはそこで、本当の自分を知ることになるのです。それはこう言い換えることもできます。「人間は、神を知ることなしに、本当に自分を知ることもまたない」と。

北ドイツにリューベックという大変美しい街があります。その町の聖堂に古びた石板があって、そこに詩が記されています。その詩にはこう書かれています。

われらが主キリストはかく宣(のたも)う   作者不明

 汝ら 我を主と呼べど 我に従わず

 汝ら 我を光と呼べど 我を仰がず

 汝ら 我を道と呼べど 我に倣(なら)わず

 汝ら 我を命と呼べど 我を望まず

 汝ら 我を智者と呼べど 我に学ばず

 汝ら 我を無垢と呼べど 我を愛せず

 汝ら 我を富者と呼べど 我を求めず

 汝ら 我を永遠と呼べど 我を訪ねず

 汝ら 我を仁者と呼べど 我に来らず

 汝ら 我を貴人と呼べど 我に仕えず

 汝ら 我を強者と呼べど 我を崇めず

 汝ら 我を義人と呼べど 我を懼(おそ)れず

 かるがゆえに 我 汝らを責むとも 我を咎むな

 

この詩は、私たちに問いかけています。私たちはキリストを知っているのだろうか。知っている通りに崇めているのだろうか。その方にふさわしく、生きているのだろうかと。

 私たちは主イエスをある程度知っているかも知れません。キリストは光です。キリストは道です。命です。知恵あるお方です。いろいろと言うことはできるかもしれません。けれども、私たちは残念ながら、私たちが知っているように、この方に接していないのではないかと、問われると、まことにその通りですと言わざるを得ません。

 神を知らないこと、そのことが罪なのです。なぜなら、神をしらないかぎり、私たちはどう正しく生きるかさえ知らないのですから。

だから、今日の聖書は私たちに語りかけるのです。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない」 (ローマ3章23節)と。パウロはこの言葉を使う前には、10節で詩篇を引用しながら、こう言っています。「義人はいない。一人もいない。悟るはいない。神を求めるはいない。すべてのが離れていき、だれもかれも無用の者となった。善を行うはいない。だれ一人いない。」 この言葉は、詩篇14篇の1-3節の言葉です。

神の前に正しく生きたいと思っても、誰一人として正しく生きることができないのです。「罪」という言葉を教会ではよく使います。罪という言葉を私たちは頭の中で「犯罪」という意味に置き換えて理解してしまうところがあります。しかし、ここで言っている「罪」という言葉は、誰かが何か自ら進んで悪いことをしでかしてしまうというような意味で使っていないようです。あるいは、人間が罪人であるというのは、ただ、人間の心の状態のことを言っていると考えるのかもしれません。しかし、聖書がいう罪という言葉は、どうやらそう意味ではないようです。パウロはここで「神の栄光を受けられなくなっている」という言い方をしています。以前の翻訳では「栄誉」と訳されていました。つまり、人間は神から栄光や、栄誉を受けて生きることができるはずだったというのです。

フランスの哲学者パスカルの有名な言葉に、「人間の悲惨というものは、王位を失った悲惨である」という言葉があります。人間とは本来王として生きることができる存在であったというのです。けれども、そう生きることができなくなってしまった。それはなぜか。それは、神を見ることを止めてしまったからです。だから、人間本来の生き方を見失ってしまったのです。人間の本当の生き方を知ることを、人は自ら捨ててしまったのです。本当は王として生きられるはずなのに、自分勝手に生きた方が王様らしいと考えて、自分の思うままの生活をすることに甘んじてしまったのです。そうして、本当の生き方を見失ってしまったのです。

だから、私たちが神の御前に出る時、私たちは自分の惨めさを知ることになる。これが罪を知るということなのです。

今日、私たちが聞いている使徒信条の信仰告白の言葉は「罪の赦し」です。この罪を神が赦してくださるという、御言葉を聞こうとしているわけです。つまり、私たちは、再び王のような生き方を取り戻すことができるようにしていただけるということです。そして、このことが、ルターやブルンナーが語った「新約聖書の中心」の出来事なのです。

24節から26節はこう語っています。

神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

この言葉は、聖書の学者たちは口をそろえてパウロの言葉ではなかっただろうといいます。パウロの言葉というよりも、当時の教会の信仰の言葉であっただろうというのです。つまり、教会の信仰の言葉として受け継がれてきた言葉として、福音の根本的な内容がここに記されているというのです。

ここで語られていることは、こういうことです。「神が、イエス・キリストこの世にお遣し下さり、この方の血潮によって、罪を赦してくださる。これがイエス・キリストを信じることによって自分の身に起こると信じる者を義と認めてくださる。それは、神のただ一方的な恵みによる」というのです。

罪の赦しということを私たちが考える時に、すぐに何か特別な十字架の体験や、罪の赦しの経験、何か涙がながれるような経験でもすれば、赦しが確かなものであるかのように思ってしまうところがあるかもしれません。けれども、「罪の赦しを信じる」という信仰告白は、私たちの信仰の体験の深さを問うことではありません。私たちの罪の自覚や、信仰の体験に先立って、神が自分を赦して下さっているということを信じるということ、神の恵みの中に置かれているということを受け止めるということなのです。

 神は罪ある私たちを、「値なし」に義と認めてくださるとあります。

新共同訳の言葉でいえば

「ただ、キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(24節)

「無償で」「タダで」ということです。人によっては「タダ」と聞くと、すぐにも飛びつきたきなる方もあるかもしれませんし、あるいは反対に「タダより高いものはない」と距離を置きたくなる方もあるかもしれません。

 今も何人かの方と、信仰の学び、あるいは聖書の学びを持っています。以前いた教会で洗礼準備会をした時のことです。その方は主イエスを信じて、洗礼の学びを始めたのですが、私に質問をしました。「こうやって毎週時間をとってもらって学びを続けているけれども、実は毎回来るたびにドキドキしている。というのは、いつ、それまでの学びで合わせていくらになりますと言うのだろうか気になって仕方がない」と言われたのです。そう言われて、私の方こそ驚いてしまって、「もちろん、お金はいただきません」と答えますと、「けれども、世の中にはただのものなんて一つもありませんから」という答えが返ってきました。確かに世の中では、何でもお金をとる世界です。だから、にわかには信じられないと言われたのです。「ただ」と言われると気をつけなければいけないこともあるでしょう。けれども、「キリストは、神の恵みによって、無償で義としてくださる」のです。この無償でというのは、説明が必要かもしれませんが、もちろん文字通り、無償です。けれども、同時にここには、「人間の努力なしに」という意味が込められています。

 「罪が赦される」。実際に歴史の中で、「免罪符」、あるいは「免償符」と呼ばれるものを買えば罪が赦されるとした時代が教会の中にもあったことは事実です。これは、徳を積むことで救われるという間違った考え方が生まれてしまったからです。そして、献金をすることで、徳を積むことができると考えるようになって、ついには、免罪符なるものを買うことが徳を積むことになるという考えになってしまったわけです。その背景には、やはり罪を赦していただくために、人間側からの努力、つまり「徳」に表されるような「良い行い」というものが必要ではないかと考えるのです。自分のしてきた罪に対してふさわしい行いをすることによって、それまでの罪が帳消しになると考えるのです。スピード違反をしたら、反則金を払うことよって許されるというのと、同じ考えです。

 けれども、これでは何の恵みでもないし、結局は人間の努力がものを言うということになります。けれども、私たちの罪、つまり神を捨ててしまったということは、努力してなんとかできるようなものではありません。 

 けれども、神は、ご自分を捨ててしまって勝手に生きている人間、しかもこの人間はどう生きていいかも分からなくなってしまい、途方に暮れてしまっている人です。この人のために、ご自分の御子をわざわざ遣わして、どう生きたら良いか模範を示してくださいました。しかし、人間はこの神のから使わされた神の御子である主イエスを殺してしまいます。それが、自分のことが分かっていない人間の大きな罪です。神に対して何度も、何度も、裏切り続けているにもかかわらず、それでも、この神が御子イエス・キリストを、この自分のために遣わしてくださったお方だと受け入れ、信じるなら、これまでのことはもはや問わないと言ってくださるのです。そこにあるのは、ただ神の忍耐でしかありません。神は私たちに対して実に寛容なお方なのです。この憐れみ深い神に対して、私たちは、自分の良い行いをすることや、徳を積んだり、献金をしたりすることで挽回することなどできません。ただ、本当にこれはありがたいことだと、この神の恵みを受け入れるほかないのです。神が自分のようなものを受け入れてくださり、赦して下さったと信じるほかないのです。

そうして私たちが主イエスを受け入れる、信じるということは、自分はもはやこの方のために生きるほかないと知るのです。それが、私たちが王としての生き方を取り戻すということです。神からの栄誉を受けて生きる、神の栄光を受けつつ歩むということなのです。自分の人生は神なしであったけれども、神と共に生きる、いや、もう自分は神に支配していただいて生きるほかない。神に自分を任せるほかないのです。これが、罪を赦された者の歩みです。

 もちろん、そうして私たちが神に罪を赦されて生きることになっても、人生の問題がすべて解決するわけではありません。尚もさまざまな葛藤があります。自分の信仰を疑うような自分の罪との戦いを経験するでしょう。さまざまな試練や葛藤を経験することでしょう。罪が日ごとに私たちの中で大きくなって、罪に負けて、みじめな姿をさらすことが続くかも知れません。けれども、このことを覚えていただきたいのです。

 それは、宗教改革者ルターが自分にそのような厳しい戦いを感じる時に、ルターは机に向かって「私は洗礼を受けている」と記したのです。私は救われている。私はもう神のものである。そう自分に言い聞かせるように、自分の身に起こっている事実に目をとめたのです。私は洗礼を受けている。洗礼を受けることが、自分が救われていることを示す、動かすことのできない事実となるのです。だから、洗礼を受けることが大切なのです。神は私の罪を赦してくださった。そこに目を向けるのです。

 罪が赦されたはずなのに、自分が罪深いことを思い知らせるような意識がどんどん強くなる、そう感じることもあるでしょう。しかし、それこそがまさに私たちが罪を自覚するようになったこと、私たちが聖くいきたいと願うようになったことのあらわれでもあるのです。この罪の自覚は、消えるどころか日毎に強く感じることになるかもしれません。これを、「聖化」と言います。聖なるものへと変化している過程に起こることです。今までは罪だと感じなかったことまでも、罪と感じる。これが、クリスチャンとしての成長の過程なのです。

 私たちの罪が気になる時というのは、常に私たちの目をそこにいきます。そこで私はいつも、そういう悩みを抱くクリスチャンのためにエビチリの話をすることにしています。

たとえばそれは、結婚式にきれいな衣装を着て出かけたのに、食事をしていた時にエビチリを食べて、そのシミがついてしまった時のようなものです。私たちはそのエビチリのシミが気になってしまって、みんながそのシミを見ているような気がして、思わず心の平安がなくなってしまうのです。誰かが見ているのではないかと気になる。でも、大切なのは自分のシミに目を止めることではなくて、そこで結婚の祝いをしている人たちを祝福することこそが大切です。そこは喜びの祝宴なのです。そんなところに目を向けていないで、喜びの中にいればいいのです。

 私たちはたとえ罪があったとしても、そこに目が向き続けるかぎり、その罪と決別することはできません。いつまでもその罪を見ているからです。けれども、私たちはキリストによって罪が赦されたという事実の中にいるのです。だからそのために洗礼を受けたのです。だとすれば、罪赦された者として、喜んで生きたら良いのです。その喜びの中に生きるなら、私たちにシミをつけている罪は、その力を振るうことができなくなるのですから。

 私は洗礼を受けている。それは事実である。私は罪を赦された。キリストの十字架は私のためである。そして、私は今、キリストに支配されて生きている。この事実に目をとめて、キリストと共に、喜んで歩んでいきたいのです

 お祈りをいたします。