主日礼拝メッセージ ノアの箱舟2「戸が閉ざされる前に」2025/10/12

聖書箇所:創世記7章1-16節
鴨下直樹牧師

創世記7章1-16節 「ノアの箱舟2 戸が閉ざされる前に」2025.10.12

 昨日から少しずつ雨が降り始めていまして、今週いっぱいは雨が続くそうです。毎日毎日雨がつづくと本当にいやな気持になります。私の父が、かつて小さな本を書きました。『ジュニアのはこぶね』というタイトルの本です。父が中学生の頃、雨が降って体育の授業ができなかった時に、当時の学校の先生が「今日はお話をしてあげます」とノアの箱舟の話をしたのだそうです。その経験が、この本のタイトルになったというわけです。父が若い時に聞いた、ノアの箱舟の話はとても印象的だったようです。後になって父が信仰をもつようになり、聖書の物語だと知るようになってようやく、その先生はクリスチャンであったかと気がついたようです。若い時、雨が降った時に、ノアの箱舟の話を聞いた。それは、父にとって衝撃的な話だったようです。だから覚えていたのだろうと思うのです。

 このノアの箱舟の話は、教会に長い間来ている人にとっては、心に刻まれた聖書物語の一つかもしれません。聖書の中に出てくる動物がたくさん出てくる小さな子どもの頃から喜んで聞いた聖書の物語であるかもしれません。けれども、ここに書かれている物語の内容というのは実際には可愛い物語ではありません。壮絶な内容です。雨が降って、降って、降り続いて、人々がすべて死に絶えてしまうまで降り続いたという話です。呑気に聞いていることなどできない話です。

 私事で申し訳ないのですけれども、約20年前のことですが私がドイツにいた時に、友人の学生と「梅雨」の話をしたことがあります。ドイツでは長い冬が明け、春を迎えて5月くらいになりますと、暖かい日が続きます。そうすると、学生たちなどは「やっと夏が来た!」と浮かれだします。ある時、ドイツの友だちが私にこんな質問をしてきたことがあります。「日本でもこの時期は夏か?」と聞いてきたのです。それでわたしは、「日本では梅雨終わるまで夏が来たとはあまり言わない」と説明しました。すると、「その梅雨っていうのはなんだ?」と聞き返すので、「雨季のようなもので、雨が一か月くらい続くのだ」と答えました。「梅雨の時期になると、毎日雨が続いて、しかも湿度が高いので、本当に気が滅入ってしまう」などと私が言おうものなら、「じゃぁ毎日雨が続くと、日本人はノアの箱舟の話は、ドイツ人よりもよく理解できるのではないか?」などというトンチンカンな答えが返ってくるのです。私が不思議な顔をしていると「だって一か月雨が続くんだろう?」と言うわけです。一ヶ月雨が降ると聞いて、彼はノアの箱舟の時のことをイメージしたようです。けれども、実際の梅雨の季節というのは一ヶ月ほど続きますが、別に雨が毎日降り続くわけではありません。自分が経験したことがないことというのはなかなか理解するのは難しいようです。

 梅雨に限ったことではありません。台風が来る時もそうです。最近では長雨が続くと、「線上降水帯」というのが起こって、その地域に大量の雨が降り続きます。最近も四日市あたりでは大雨のために車が何台も水没したというニュースが出ていました。そういう意味で言えば、雨が降るとノアの洪水の出来事を思い起こさせるということは、日本のような雨を経験することの少ないドイツ人に比べれば私たちの方が多いのかもしれません。9月、10月は台風シーズンなんていう言い方がありますが、梅雨の季節や台風シーズンの時のように、激しい雨が連日のように続けば、大変なことになるということは、この揖斐川、長良川、木曽川という川のそばで生活している私たちにしてみれば彼らより理解しやすいことなのかもしれません。大雨のために川の堰が切れてしまうなら、これは本当におおごとです。実際に、みなさんの中に以前の洪水のために家が水につかってしまうという経験をされた方もおられるかもしれません。

 今日の聖書の個所ではこう書かれています。11節、12節をお読みします。

ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。大雨は、四十日四十夜、地に降り続いた。

 大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた」。こう書くことによって、まるで天地創造以前、創世記1章7節にあった「大空の下にある水と、大空の上にある水とが分けられた」と記されていたはずの世界が、もう一度、すべての水に飲み込まれて、まるで、天地創造以前の状態である「茫漠」と書かれている時の状態にまで戻ってしまったかのように、描いているのです。それは、言って見れば、世界はもう一度はじめからやり直ししなければならなくなったと物語っているかのようです。雨は四十日四十夜という長きにわたって降り続けます。まるで、世界が再び水浸しになって、初めに状態に戻すかのように、これでもか、これでもかと降り続く。当たり前のことですけれども、それは川が決壊し、家が水浸しになった後も続くということです。家が飲み込まれ、すべてが水に飲み込まれてしまうのです。そう、まさに「天の巨大なる水の源が張り裂けた」と、言うほかないほどのすさまじさによって、世界のすべてが水に飲み込まれてしまう。世界はこうして、神にさばかれたのです。水によって世界は滅ぼされようとしているのです。このことは、その当時の人々にだけではなく、この出来事を耳にする者すべてに、忘れることのできない衝撃を与える神のさばきです。

 神はノアに向かって言われました。「あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去る」と4節にあります。

 「消し去る」と新改訳は訳しました。非常に強いことばです。「完全に滅ぼし尽くす」という神の強い決意が、この言葉の中に込められていることが分かります。けれども、この言葉の中に、神の悲しみが込められているのです。考えていただきたいのです。自分が一生懸命作ったもので、それも、本当に良くできた!と喜んでいたものを、捨てなければならない時の痛みを。今年も、11月1日に教会のバザーがあります。皆さんいつも、このために本当によく準備してくれています。いつもケーキを作ったり、食事を作ったりしてくださる方の苦労は、本当に大変なことだと思います。そうやって一生懸命作ったものに、たとえば虫がついてしまった。あるいは、何か他の理由でだめになってしまって、せっかく作ったものを捨てなければならないとしたら、それがどんなに悲しいことでしょう。そして、もう一度作りなおさなければならないとしたら、その悲しみはどれほどでしょう。私たちが作るものであってもそれほどなのに、ましてや、人間です。動物たちやすべての生き物、この世界全てを滅ぼさなければならないのです。前回も、少し話しましたけれども、6章の6節に「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあるとおりです。

 神のさばきというのは、何よりも神ご自身が悲しんでおられる、心を痛めておられるということを、わたしたちは知らなければなりません。この神は、どこか高い所に坐して偉そうにしながら、まるでアリをひねりつぶすようにして、この洪水によるさばきをなさろうというのではないのです。

 神の心は明らかです。本当ならばこの世界をさばきたくないのです。滅ぼしたくはないのです。救いたいのです。人を生かしたいのです。ただ生かすというのではなく、神が考えておられるように、生き生きと、喜んで生きることができるように生かしたいのです。人がこそこそしないで、自信を持って生きることができる。後ろめたさなども持たずに生きることができる。そのような人生を、神は人間に与えたいのです。けれども、誰一人として、この神の心が分からないのです。神が考えておられる生き方よりも、自分で自分の人生を生きた方が、幸せだと思い込んでしまっているのです。人はどんどんと、自らの選択で破滅の道へと歩んで行っていることにすら、気がついていないのです。

 宗教改革者カルヴァンはかつて言いました。「われわれは本来、日々ノアの洪水によって神の前にほろぼされるべきものだ」と。これは、むかしむかしのお話ではありません。今、私たちが、よく聞かなければならない物語なのです。今も、私たちはこのノアの時代の人々と全く何も違わない生活を送っているのです。神がご覧になって、私の生活は大丈夫ですと、胸を張って生きることなどできないのです。これが、ノアの洪水の中心にある問題です。このノアの時代の出来事は、私の出来事、自分のことがここに書かれているのです。カルヴァンの言うように、「われわれこそが、日々、このノアの洪水によって神の前に滅ぼされなければならない者」なのです。

 ここに、神の姿が示されています。神は、人々の罪をそのままにしておくことはできず、これは滅ぼしてしまおうと考えられるお方だということです。私たちの神は、人を救いたいと願っておられるお方です。けれども、滅ぼすという選択も選ばれるお方だということを私たちは知らなければならないのです。なぜなら、ここに神の愛が示されているからです。もし、自分の子どもが悪いことをしても、怒らない親がいたとしたらどうでしょうか?最近は、叱らない子育てという考え方があるようですが、これは気をつけなければなりません。もちろん、すぐに感情的になって当たり散らしてしまうような子育ては問題なのはいうまでもありません。しかし、本当に悪いことをした時に、叱るということがなければ、子どもは愛情を受け取ることができません。何をしても、何の反応もしないということは、無関心だということになってしまうのです。この無関心は、愛とは真逆のところにあるものです。

 私たちの神は、私たちに無関心なお方ではありません。関心がありすぎて困るくらいです。けれども、すぐに介入して爆発してしまうのではなくて、神の怒りは、さばきというのは最後の最終手段です。こうして神のみ怒りを示すことを通して、神は私たちを愛していることをあらわされるお方なのです。

ここにも出てくる一つの面白い言葉があります。それが1節に出てくる「神の前に」という言葉です。この「神の前に」という言葉は、カルヴァンがとても大切にした言葉でした。神が見ておられる、ということです。カルヴァンは、「神だけが人の生き方が正しいかどうかを評価できる唯一の審判者である」と、このところで言いました。その神は、ご自身の目でノアをご覧になります。

 1節。主はノアに言われた。「あなたとあなたの全家とは、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである

 神はここでノアのことが「正しいと分かった」と書かれています。以前の第二版では「見たからである」と書かれていました。元々のヘブル語は「見た」「ライーティ」という言葉が使われています。神はノアを、神の前に正しいと見られたのです。しかし、そこで私たちは思います。人間の生き方を評価することのできるただ一人のお方から見て、「正しい」と見られる生き方とは、どのように生きることなのかと。神がこのノアをこの人は正しいと見られたというのです。実はこれが、宗教改革者たちが語った、義と認めるという、義認の教理なのです。神は、ノアを見られて義と認められたのです。ドイツの旧約学者は、この「見た」という言葉を、「神は将来において見ている」ということだと理解しました。この言葉は、サムエル記第一の十六章一節で同じよう使い方がされていると言います。ここには、イスラエルに最初に建てられた王サウルが神から離れてしまい、そのことを悲しんでいる預言者サムエルに対して、神がダビデをサウルに代わって次の王として任命する時のことが記されています。お読みいたします。サムエル記 第一 16章1節です。

主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

 ここで最後に「見出した」となっている言葉と同じ言葉が、このノアのところに使われていると言うのです。これは、ただ「見つけた」という意味だけではなくて「将来、を見据えている」という意味が込められています。また、同時に「発見した」という意味も込められてもいます。

 神はノアを発見します。そして、この男は、これから新しい将来を託すことができる人物だと見られたのです。これは、ノアのこれまでの歩みである、過去だけを見られて正しい、あなたは義人だと宣言しているのではないということです。そうではなくて、神は、ノアの将来をも見据えておられるのです。神が義と認めるというのは、そのような意味があると言うのです。

 ノアは完全な人間で、これまでの、過去の行いが正しかったから、神が義と認められたということではなかったのです。それは、この後、続いて読んで行けば分かりますけれども、ノアは完全な人間ではありませんでした。失敗も犯す、過ちを犯すこともしているのです。将来においても失敗をしているのです。ダビデも同じです。ダビデも何度も失敗をくりかしますが、神はそのダビデの将来を見据えながら終えらびになられたのです。このように不完全さを持つノアであっても、神はこのノアの将来全体に対して希望を持ったのです。ここに、私たちへの慰めがあるのです。

 神はわたしたちの過去のことしてしまったことだけに、目を留めておられるのではないのです。そうではなくて、わたしたちの将来をも見ていてくださる。失敗することもあり得る将来をご覧になりつつも、この人は大丈夫だと見据えていてくださるというのです。ここに、神の救いの意味があるのです。神が私たちを救われるのは、今の私たちを義としてくださるというのは、私たちの将来をも、義としてくださるということです。

 私たちは金曜日にオンギジャンイの方々をお迎えしてコンサートをいたしました。この笠松教会いっぱいに人が集まってくださいました。そこで、一人の女の方が証をしてくださいました。彼女は今回9年ぶりにオンギジャンイのメンバーに加わったそうです。その間に色んなことがあったそうです。賛美のグループに入ったのに、その後都会に出て一人の生活しているうちに心の寂しさを埋めるために、この世のものを求めるようになったそうです。そして、一人の人と出会って、子どもが出来て、結婚生活がはじまったそうです。ところが、この男の人と一緒に生活してみると、自分に話していたような人物ではなくて、仕事もしないで賭け事ばかりする人だったそうです。子どもが生まれるために仕事もやめたけれども、ご主人は仕事をしないで、自分を騙して、賭け事ばかりしていたのだそうです。子どもが生まれても、何も買うことができず、本当に苦しい日々が続く中で、「神様がおられるならどうしてこんな苦しいことがあるのか」と神様に毎日叫び続けていたそうです。

「自分は一体何をやっているのか?自分が思い描いていたのはこんな生活だったのか?」そう自問自答する中で、少しずつ信仰が回復していったという証でした。

 自分が憧れていた賛美宣教の歌手になったのに、自分のその後の歩みは悲惨なものとなってしまったのです。信仰に生きるようになって、立派な、胸を張って生きることができるような生活を誰もが進むわけでもないのです。けれども、そういう失敗を通しても、神はその方の手を離さず、守り続け、もう一度信仰へと立ち返らせてくださったのです。

 それが、「神が見られる」ということです。神の前で義と認められるということです。それは、失敗しない人生を歩むということではないのです。

 神は、私たちの将来をご覧になっておられて、私たちのことを全て理解した上で、私たちを義と認めてくださるのです。私たちの主は、私たちのことをよく知っておられるお方です。

知っておられて、その上で私たちを受けいれてくださるお方なのです。 

 今日の聖書の個所は16節までですけれども、ノアは動物をそれぞれ箱舟に入れたところが書かれています。2節ではきよい動物は七つがいずつ入れるようにと書いてあります。ところが、9節では「雄と雌がつがいになって箱舟の中のノアのところにやってきた」と書かれています。以前の第二版では「雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た」となっていました。前回の6章の20節でも「それぞれ二匹ずつ」と書かれていました。箱舟に入ったのは七つがいなのか、二つがいなのか、ちょっとはっきりしません。祈祷会などでは丁寧に説明しているのですが、ここではあまり時間がないので説明できません。ただ、簡単に言うと7章の前半部分はとても丁寧な説明がなされているので違うということです。動物の役割によって集められる数が違ったようです。

 他には、ここはいろいろお話ししたいことが沢山あります。たとえば動物はノアたち家族がかがしたのか、自分たちで集まってきたのかなんてことが書かれていますが、ごめんなさい時間の関係で諦めます。ただ、大切なので心に留めてください。

 今日、最後にここで目を止めたいのは16節の最後の言葉です。

「それから、主が彼のうしろの戸を閉ざされた」と書かれています。この何でもないような書き方の中に、神の決意が込められているのを読み取ることができます。神が戸を閉めたのです。神が閉めたということは、その後は、どうあがこうとも、開けることはできないということです。戸が閉められてしまうと、もう後戻りはできません。といっても、そのあとはひたすら雨が降り続けるばかりです。このこれからどうなるかまったく誰にも検討もつかない状況に陥るのを、ノアたちはただ神様に委ねることしかできないのです。

 先ほどお話しした、オンギジャンイの方は証をしたあとで「ヨケベデの歌」という賛美をしました。これは、エジプトの中で奴隷生活を強いられていたイスラエルの民が、あまりにも多く生まれすぎて、エジプトの脅威になったためにエジプトの王は、生まれた男の子を殺害するよう命じます。けれども、ヨケベデはカゴを編んで、そのカゴの中に水が入らないようにして、赤ちゃんを入れて、川に流します。この時の母親がどれほど苦しい思いでその決断をしただろうかという、この時のヨケベデは、神に委ねるしかないなかでの母親の苦闘の祈りの歌です。とても素敵な歌でした。

 ここでのノアも全く同じです。もう自分たちにできることは何もない、ただ神に頼るのみです。でも、明らかなことがあります。ノアは、扉が閉められる前に神はすべてを備えてくださっていたことを、すでに体験しているのです。箱舟を作り上げるのは大変な苦労だったことは間違いありません。けれども、動物を集めるのはもっと大変だったはずです。でも、動物たちは主が集めてくださいました。そして、これまでの間に、ノアは誰もこれまでやったことのない大きな船を作り、動物園を船の中につくり、その準備はすべて神にとって支えられてきたのです。だから、きっと戸が閉じられた時には、神におゆだねする心は決まっていたはずなのです。というのは、これは神の救いのわざなのだということをノアは知っていたからです。

 神は生きておられるお方です。そして、人の人生に加入なさるお方です。時には厳しく、時には非常に大きな愛で包み込んでくださることによって、その愛を示してくださいます。このお方は、すべてを見通しておられます。だから、私たちはこのお方に託すことができるのです。それは、一か八かの賭けではなく、大きな信頼の中で委ね切ることのできる安心感があるものです。

 これが、信仰なのです。かつて、東京の銀座教会で牧師をしておられた渡辺善太という牧師は、この信仰をこう表現しました。「暗黒への飛び込み」と。

 信仰とは、その先がまっくらな暗黒のような暗闇であっても、その先に神の御手があると信じて飛び込むことができるものなのだと。

 主の御手の中には、すべての安心が詰まっているのです。だから、私たちはこのお方に身を委ねることができるのです。

 お祈りをいたします。

 そういうわけで、このノア箱舟の物語を四回に分けて説教しようと決めたわけですけれども、これには随分と悩みました。もちろん、もっと細かく丁寧に御言葉を解き明かすことができるとお思います。特に、今日の個所は1節から8節で一度話が切れています。切れているというよりも、内容が大きく変わるのです。ですから、従来の分け方でいえば、ここは二度に分けて語るのが相応しいと思いますけれども、今日はこの1節から8節と9節以下とを一緒に読み進めて行きたいと思っています。

 今、この6章の1-8節は、続く9節からとは内容が大きく異なると言いました。最近ではこの創世記は、4つの異なる資料から今の形に編集されているとほとんどの学者たちは考えています。異なる資料というと、どういうことかと感じるかもしれませんが、たとえば祭司たちは、自分たちの祭儀に関しての特別な伝承を持っています。そういう、四つの伝承があって、それらの4つの異なる伝承が一つにまとめられているのではないかと、最近の聖書学者たちは考えているわけです。そして、この箇所は、聖書学者たちが言うには、それぞれ資料が異なるというのです。ただ、伝承が異なるからといって、それぞれを分けていっても、文章が細切れになるだけのことで、大切なことは今はこうして一つの文章としてまとめられているわけですから、基本的には細かなことは気にしないでお話ししていきたいと考えています。また、この1節から8節は、9節以降と内容がかなり異なります。けれども良く読んでみますと、この最初の部分というのはノアの箱舟の物語の序章といいますか、そのための導入のような役割を果たしています。そういうこともあって、今日は、細かく分けないで6章全体から一緒に御言葉を聞いていこうと思っているのです。

 さて、それでこの冒頭の部分に書かれていることはどういうかと言いますと、簡単にまとめると「人間の罪はますます増大した」ということです。1-4節のところに、二つの不思議なことがいくつか書かれています。

 その一つは、「神の子らが、人の娘を妻とした」ということです。もう一つは「ネフィリム」と呼ばれていた巨人がいたということです。

この箇所は、創世記の中でもさまざまに解釈されるところです。たとえば、2節にあるこの「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て」とされているところを、「天使たちは」と訳している聖書もあります。というのは、ここで「神の子たち」という言葉は、唐突に出てきているのです。しかし、この箇所を「天使たち」と理解することは少し無理があるといえます。というのは、新約聖書マタイの福音書22章30節には「御使はめとることも、とつぐこともない」と書かれていますからです。そうとすると、この「神の子」というのは、前の5章に記された系図にあるような「アダムの子であるセツの子孫」ということになります。であれば、「人の娘」というのは誰のことを指すかということになるわけですが、一般的に考えればその前の4章に記されている「兄弟を殺したカインの子孫」ということになるでしょう。5章に出てくる系図の民、神と共に歩むようになった民と、4章にある、力や権力によって文化を作り上げたカインの子どもたちとが、ここで一つとなったということのです。

 そうなると、ここで問題となるのは、ここで神の子たちと呼ばれたセツの子孫が、どうして、人の娘と呼ばれているカインの子孫の娘たちを妻としたかということです。ここに記されているのは、神への信仰に生きる者ものが、神から離れた者たちと結婚をしたということをここで言おうとしているのでしょうか。私が神学生の時に、河野勇一先生という緑バプテスト教会の牧師が、この創世記から説教されたものをくださいました。それを読むと、河野先生はこの箇所の説教で、こんなことを語っています。「ここからクリスチャンはクリスチャンでない人と結婚してはいけないなどと解釈してはならない。ここにはもっと深刻な問題が書かれている」と言うのです。

 ここには、このように書かれています。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした」(2節)と書かれています。以前の第二版では、「その中から好きなものを選んで、自分たちの妻とした」となっていました。「美しいのを見て、その中から好きなものを選ぶ」などというのは、今の私たちにとって当たり前のことのように思うかもしれません。ごく普通の一般的な感覚です。けれども、この牧師は言うのです。「ここで問題になっているのは、結婚をするときに何を基準に相手を選んだかということだ」と。結婚というのは人生で二番目に大きな決断の時だと、この牧師は言います。いちばん大事な決断は、「信仰をもつ」、「神を信じるという決断をすること」です。これは、神との契約です。そして、結婚するときにも、誓約をします。「病める時も、健やかなるときも、富む時も、貧しい時も生涯この人とともに歩む」という誓約をする。ここで、神の子どもたちは、神と共に生きるという誓約をして、今、また妻を迎える時には、この人とであれば神と共に歩むことができるかどうかを祈って決断する必要がある。このように、神と共にあって生涯を共に歩んでいく者を決断するのに、その判断基準が「美しいから」ということに変わってしまっているのではないか、とこの牧師は問いかけているのです。

 このような結婚観は、それこそ現代の当たり前の姿になっています。けれども、ここに大きな問題が潜んでいると創世記は記しているのです。この基準が、罪の更なる拡大となったのだということを、創世記はこの第6章で描いているのです。この6章の前半に描かれている問題は、神と共に生きる、妻も共に神と共に生きるということを人間が考えなくなった。そのような人生の本質的な問題を、ただの自分の好みの問題に変えてしまった罪を描き出しているのです。

 人間は、この自分の人生のために大切なこと、本質的なことは常に契約という形をとります。洗礼もそうです。結婚もそうです。会社に就職するとき、家を買うときも、車を買うときもそうです。そういう大切な決断をするときは、必ず契約を結びます。ところが、そのような大事な事柄が、単なる好みの問題になってしまう、自分の好き嫌いで判断できることだと、自分の人生を軽く見てしまっているのです。人間の犯す罪は、もはや際限がなくなっているのです。それで神は、このところで、自分の好みで神に定められた限界を超えようとする人間に対して、神は、制限を設けられました。それが、3節にある「人の齢は百二十年にしよう」という神の言葉の中に現れているのです。

 では、このネフィリムと呼ばれている巨人のことは、どうかということですけれども、これが巨人であることは、民数記13章33節に出てきます。これは、イスラエルの人々がエジプトで奴隷をしていた時に、エジプトから出て、神からの約束の地であるカナンに入ろうとしている時、モーセは若い人のリーダーとしてヨシュアとカレブの二人を選んでこの土に入る前に、斥候としてこの土地について調べさせます。そのときに、カナンの土地が裕福なのを見て、ヨシュアとカレブの二人は行きましょうというのですが、ほかの人々は言います。「私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリム人の末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えたことだろう。」と言っています。自分たちがバッタほどの小さな存在と感じるほど、このネフィリムは大きかったというのです。今日の箇所の4節を新改訳では「彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地にいた」という翻訳をしています。これはカトリックのバルバロ訳もそのように理解していますけれども、もう一つの翻訳はこうなっています。4節「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」

 今お読みしましたのは、新共同訳聖書ですけれども、このように神の子らが産んだ子どもがネフィリムであったというのが、そのほか口語訳ですとか、岩波の新しい月本訳ではそのように訳しています。この訳だと「神の子」というのは天使のような特別な存在という解釈が前提となっているようです。

 これによると、神の子どもたちが、美しい者に心ひかれ、神を軽んじて、自分たちに与えられている限界を超えようする行為が、ネフィリムなどと呼ばれる巨人を生み出したのだという解釈をしていることを意味します。けれども、神はこのように、人間がどのように神が設けた限界を破ろうとも、そのような努力は、結局神によって滅ぼされることになるということがここで語られているということです。それが、この後につづくノアの物語へと続く導入になっていくのです。

 こうして、神はついに語り始めます。5節から7節をお読みします。

 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして、主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで、わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

 この部分で人の心の中のことが語られています。「その心に計ることは、いつも悪いことだけに傾く」というのです。私たちの心は、いつも悪いことに傾いてしまう。この心というのは、思いだけではありません。この言葉は、感情だけではありません。その知恵も、また自らの意思をも含まれた言葉です。もはや、すべてが、すべての人間が、すべての自然が、すべての被造物が、その悪に支配されてしまってもがいているのです。そして、それと同時に、神の心までもが、悲しみに支配されてしまうのです。

 この箇所では神がどれほど人間を愛しておられるかが分かります。その人間がいつも悪に心が傾くのを神がご覧になられて、人に対してもはや何の関心も示さなくなってしまうとすれば、それは「ほうっておく」「無視する」ということになるでしょう。けれども、神はそうはなさいません。それは、それほどまでに私たちのことを愛しておられ、ご自分の心を痛められたくらい、愛してくださっているのです。 

 そして、次の8節に短い言葉でこう記されています。「しかし、ノアは主の心にかなっていた」と。このノアだけが、主の心にかなう生き方をしていたのです。こういうことができるかもしれません。「今や、この腐敗した世界はノアのゆえに保たれる」と。

 そうして、9節以降から神の壮大なる人類の再生計画が開始されます。そうです。これは、神の救いの物語なのであって、滅びの物語、裁きの物語ではありません。たしかに神は、世界を滅ぼす計画をお立てになりました。しかし、それは、世界を完全に滅ぼすものではありません。世界をもう一度再創造するための裁きでした。そのために、神はこのノアにすべてを託されたのです。このノアがどのような人物だったのでしょうか? 「ノア」という名前のもともとの意味は「休む、落ち着く、安らぐ」という意味です。そこから「慰め」とか「安らぎをもたらす者」という意味だと理解されるようになりました。

この慰めの人であるノアがそんな人物であったのか、それが9節に短く三つの言葉で記されています。それが「正しい人」、「全き人」、そして「神とともに歩んだ」という言葉です。

この「正しい人」という言葉は、「義人」とも訳される言葉で、法的に正しい、道徳的に正しいという意味があり、さらに、神との関係においても正しいということが、この言葉で表わされています。また、「全き人」というのは「非の打ちどころがない完全さ」をあらわす言葉です。ですからこの言葉は、旧約聖書の中で、神に犠牲をささげるときに、傷のない清い動物をささげるときに、この言葉が使われました。つまり、「聖い」ということをあらわしているのです。そして、「神と共に歩む」という言葉は、他のことばと言い表すために、11節では「地は暴虐で満ちていた」と「地」という言葉で表しています。神と生きていないことを、「地」で生きているということは、「神と共に歩む」ということば、あたかも「天」で生きているかのごとくです。これからの言葉は、旧約聖書だけでなく、聖書全体が常に大事に語り続けていることです。そうです。ここに聖書が示す、まことの人間の生き方が語られているのです。

 このように、ノアは、神がこの世界を裁かれる世界の終わりの時に、神の目にかなう生き方を生きた人物だったのです。それゆえに、神はこのノアに契約をお与えになられました。

 この時神がノアの語りかけられた言葉が、13節から21節にわたって記されています。1節から8節までに時間をかけ過ぎてしまいましたので、もうお読みすることはできませんけれども、ここで、神は箱舟をこのような大きさで造りなさいということ、そして、すべての命あるものを滅ぼすこと、そして、ノアの家族と、各種類の鳥、動物、地をはうものを二匹づつ生き残らせるために箱舟に入れるようにと語られました。

 私は、今、この個所を読むこともしませんでしたから、言葉で説明すれば、わずか三四行で説明できてしまうことですけれども、それを22節にこう記しています。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに、そのように行った」。

 何でもないことのように書かれていますけれども、これをすべてそのように行うことは簡単なことではありません。第一、箱舟を造るのに、ノアとわずか三人の息子たちです。もしそれぞれの妻が手伝ったとしても合わせて8人でこれを造り上げるのに、どれほどの時間を費やしたことか。あるいは、動物を二匹ずつ箱舟に入れることにしてもそうです。動物をどこからどう探して来たのか、餌はどうしたのか、場所はどうかなどということは書かれておりませんけれども、実に大変なことだったことは、想像するに難しくないことです。

 「すべて神が命じられた通りに行った。」というこの実に簡単な言葉は、実に行うことの難しいことでしょう。

 今日の説教題は、「神の契約」という題をつけました。しかし、よく考えてみると、ここには、契約といえるようなものは、ありません。契約というのは、たいていの場合、お互いが何かを提供し合うものです。お互いが誓い合うものです。18節でこう言われています。「しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ」と。けれども、ここで、神がノアに与えている契約は、ただ、一方的に神が命じられているだけです。ノアは、ここで一方的に従うことが要求されています。

 そうです。「神の命令」とは、そのまま、即、救いなのです。ある聖書学者は「神は命じることによって救済する」といいました。神が契約を与えてくださるということは、それはそのまま、その人を救うことなのです。だから、神は確信を持ってお命じになられるのです。そして、それに対して私たちは本来、ただ従順のみで応えられるものなのです。

 そもそも、私たちは、神と契約を結べるほど、対等に何かを差し出すことなどできません。けれども、ここで、神はそのことを承知の上で、「あなたと契約を結ぼう」と語りかけてくださるのです。それは、あなたが、これに従うなら、救いを与えようという招きでしょう。

 考えてみれば面白いものです。救っていただかなくてはならないのは、人間の方です。世界に罪がはびこり、無秩序になって困っているのは私たちの方であるのに、神の方から、私たち人間と契約を結ぶと言われるのです。本来ならこちらからお願いするべき事柄のはずです。これは、一体どういうことでしょう。「契約」というのですから、神の側で、この約束は破らないということです。つまり、それは、神が確実に救ってくださるということを、私たちが信じることができるために、そのように語りかけてくださっているということなのです。

 ここに神がどれほど私たち人間のことを愛しておられるかが分かります。人間が神から離れ、それゆえに自ら悪を招いてしまっている人間に対して、神は心を痛めておられる。そればかりか、そのような私たち人間を救いたい、新しくやり直しをさせたいとお考えになられて、「契約する」と言って救いの道を示してくださっているのです。

 そうであるとすれば、私たちはこの神のご配慮に対して、従う以外の選択肢はないのです。神に従うということは、難しいことでもなんでもありません。難しいことだと思ってしまうのは、この神の心が受け止められていないからです。分からないからです。もちろん、ここでノアに求められているのは途方もなく大変な作業であることは間違いありません。船を作る造船業の仕事をする傍らで、同時に動物園を作るようなものです。しかも、そのための人員は家族8人しかいないのです。けれども、こんなに仕事が大変だからできないと考えてしまうとすれば、それは自分のことしか見えなくなっているからです。そうなってしまうと、この神の私たちに向けられた愛の心が分からなくなってしまうのです。けれども、神がこれほどまでに私たちのことを気にかけ、愛してくださっているかさえ分かるなら、私たちはこの神に従うことができるように力をも与えてくださるのです。これが神の契約です。

先ほど、私たちには人生で二度大事契約を結ぶと言いました。約束事を誓うという話をしました。その一つは、神を信じるという契約です。この契約は洗礼式の時にいたします。そして、もう一つは、結婚の誓約です。そうです。もし、私たちがこの神の愛が分かるならば、神は、私たちをご自身の愛の中に置き、私たちを守ると神の方が約束してくださるのです。ですから、私たちは喜んでこの神の救いに対して、はい信じます。私をお救いくださいと約束することができるようになります。神は約束を反故になさるように方ではありませんから、心から信頼して誓いをすることができるのです。神が私たちを守ってくださるという約束は、神のお心の中に抱いておられる確かさが土台です。

ノアに与えた契約もそうです。神は確かなお方です。その思いをすぐに変えたり、諦めたりなさるお方ではありません。このお方の思いを知っているからこそ、私たちは結婚の制約をする時も、神との約束をする時には心から互いを信じて誓うことができるようになるのです。それは、決して相手が美しいから、自分の好みに合うからというような、私たちの感覚的なものではないのです。

 この主の契約を喜んで受け取るならば、私たちもノアのように、「正しい者」として生き、「聖い者」として生き、「神と共に歩む」ことができるようにされるのです。神がそのためにすべてを備えてくださるのですから、それができるようになるのです。神が、私たちに対しても、ノアと同様に、支えてくださるのです。そう信じて歩むときに、私たちの人生はノアのごとく、慰めのある人生を全うすることができるのです。  

お祈りをいたします。