主日礼拝メッセージ「エデンの東から帰る道」2025/05/11

聖書箇所:創世記4章1-17節
鴨下直樹牧師

今日は母の日で教会に来られるご婦人方に教会の家長会からカーネーションのプレゼントをしました❤

「エデンの東から帰る道」 創世記4章1-16節

2025.05.11

 今日、私たちに与えられている聖書は、エデンの園という楽園から追い出されたアダムとエバの子孫がどのようになったのかを描き出しているところです。神の支配する世界から追い出されてしまった人間が、神の支配のない世界の中で生活を作り上げていこうとする。その最初の出来事としてこの創世記第四章が記されています。そして、このときから、主イエスによってこの世界が贖われるまでの間の人の悲しみの源が、ここに描かれているといってもいいのです。

 この4章からアダムとエバの新しい生活がはじまります。「新しい生活」という言葉を聞きますと、誰もが何か楽しげで、これから何が起こるかというような期待を思い浮かべます。けれども、果たしてアダムとエバにとって、この新しい生活はどうだったのでしょうか。この4章には、この二人に「カイン」という子どもが生まれたことが記されています。アダムとエバに、この最初の子ができたとき、二人はどれほどの喜びであったでしょう。おそらく、エデンの園を追われてはじめての喜びが訪れたのはなかったかと思うのです。そして、続いて二人目の息子アベルが生まれます。こうして、二人だけだった世界に、小さな社会が誕生します。この神の支配の外で始まったばかりの小さな社会、その姿をここで描き出しているのです。

 アダムとエバの息子たちは成長します。カインは土を耕すようになり、アベルは羊を飼う者となります。「しばらく時が過ぎて」と3節に書かれています。時が過ぎてやがて労働の実りがもたらされます。とても興味深いことにここでは、創世記3章で語られた、出産の苦しみや、労働にともなう労苦ということがこの4章にはいっさい書かれていません。けれども、ここに「時が過ぎて」と書かれているように、アダムたち家族は黙々と労働に勤しんだことだけが記されております。そのように労働や、出産が苦しみばかりのものとして記さないで、黙々と果たされるべきものであることが、このようなところに表されているということができるかもしれません。子どもが、無事に生まれる。あるいは、労働に実りがもたらされる。それは、本当に、厳しい生活の中にあって、大きな慰めを与えてくれます。

 アダムが仕事に生きがいを見出し、エバが子育てに勤しむのも、そこに決して小さくはない慰めを見つけているからだということができるかもしれません。自分が生きていることの意味を、人間は自らの生活の中から見つけ出していくのです。神を見失った人間は、そのようにして、神からではない、自分がすべてを注いでもいいと思う別のところから慰めを見出したのです。

 しかし、そのような慰めが何をもたらしたのか。ここからそれが明らかになります。カインもアベルも、自らの労働の成果を喜んで、神にささげ物をするために、収穫物を携えてきます。ここに、神への礼拝が生まれます。エデンの園を追われた、人間は、それでも神に顔を向け、礼拝をささげようとしている。カインもアベルも、その顔を神に向け、神に喜びの礼拝をささげている。「この収穫はすべてあなたによってもたらされたものです」と。

 エデンの園から追われた、小さな社会は、そのようにして、喜びの社会であることを感じ始めていたのかもしれません。ここにも、神がおられ、神への感謝が溢れていると。しかし、忘れてならないのはこの世界は神の楽園の中ではないということです。神から離れた小さな社会なのです。神から離れている。そのことを聖書は「罪」と呼びますが、その罪が、まさに、この神への礼拝において顔をのぞかせるのです。

 ささげ物をしたカインにしてみれば、自分のささげた礼拝は当然神に受け入れられると思ったことでしょう。神が自分を祝福してくれるに違いないと思ったのです。収穫の実りを神に携えてきたのです。喜んでそうしているのです。神がこの礼拝を喜んで受け入れてくれさえすれば、すべてがうまくいくのです。労働の中にある喜びを、そして、神の祝福というものを味わって、また新しい労働へと移っていくことができるはずだったのです。

 ところが、神は、このカインの期待に反します。神はカインのささげ物には目を留められず、アベルのささげ物に目を留められたのです。それは、時間にしてみればほんのわずかな出来事であったかもしれません。しかし、この一瞬の間にカインの心は凍りつき、暗闇に包まれてしまいます。何が起こったのか、理解できなかったのです。なぜそうなったのか、その理由はカインにはまったく分からないのです。

 私が子どもの頃、『天地創造』という映画を見ました。子どものころに記憶ですから、不確かですけれども、このカインとアベルのささげ物もの場面で、アベルのささげた子羊の煙は、まっすぐ神に上っていったのに、カインのものは、そこで風がじゃまをしたのか、天にそのまま昇っていかないというような描き方をしていたことを良く覚えています。子どもながらに理不尽さを感じたのです。

 聖書はこの理由を語ることに、何の説明も入れてはおりません。以前の新改訳聖書第二版を読みますとこう書かれていました。3節と4節です。 「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持ってきた。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持ってきた。」(3―4節)そう書かれていました。

 ここでは「それも最良のものを」、「それも自分自身で」と訳したのです。こういう言葉が書かれているのを読みますと、アベルは自分から持ってきたけれども、カインはお父さんのアダムか誰かに言われて持ってきたという印象を持ちます。もちろん、そのように訳すことはまったく不可能というわけではありませんけれども、聖書は実際にはこのところで私たちが納得するような理由を、語ろうとはしていないようです。それで、今の新改訳2017ではこう訳しなおされました。「しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持ってきた。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持ってきた。」

第二版では「最良のものとか、自分自身で」という翻訳をすることでカインとアベルのささげ物に差があったことを強調する翻訳がされていました。けれども、2017年版では、かなりすっきりした翻訳になっています。以前の翻訳がかなり行き過ぎた翻訳をしてしまったことを大幅に改善したのです。ここからも分かるように、カインとアベルのささげ物に大きな違いがあったということではないのです。どこかに理由があったということではないのです。

私たちは、こういうところを読みますと急に不安になります。受け入れられなかったのは何かカインに落ち度があったのではないか? ああ、そうだ、カインはお父さんに言われたからで、アベルは自分から持ってきた、こう説明されるとどこかで安心するわけです。けれども、そうしてしまうと、この物語は理解できなくなるのです。

実際にカインはこのことに納得できません。納得できないとどうなるかというと、そこで腹を立てて怒ってしまうわけです。カインは、どうして神がそうされたかまったく理解できないので、神に対して腹を立てるほかないのです。

 これはカインの物語です。大地と向き合って労働し、収穫を得、神にささげ物をする。そのような神と特別悪い関係でもないようなときに、突如、神の側から、カインにとって不都合である、理不尽であるという出来事が襲いかかってくる。これはそういう物語です。

 そうです。これはカインの物語であると同時に、私たちの物語でもあるのです。自分の中に、何か神への不信があった。神に隠れた罪を犯していた、そのような理由があるなら、納得がいくのだけれども、そのような納得のいかない、不意の神からの出来事に、私たちは、どうしていいか分からなくなるのです。そこで、出てくる叫びは一つです。「神よ、どうしてなのですか!」という叫びです。

 さて、そこでカインはどう行動したのでしょうか。もう少し聖書を続いて見てみたいと思います。4節の後半から5節です。

 「主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインは激しく怒り、顔を伏せた」

 カインは、ここで「激しく怒り、顔を伏せた」とあります。この瞬間、カインは、神の方を向くのを止めてしまいます。神を信頼することを、止めてしまうのです。こうして、カインが、どのような思いで神を見上げていたかが明らかとなります。つまり、カインは「自分のことを祝福してくれるであろう神」を見ていたにすぎなかったということが、ここで明らかとなってしまうのです。しかし、それでは神を見上げていたことにはなりません。というのは、結局は自分を見ていたのであり、祝福してくれる方をあてにして見ていたにすぎなかったのです。

 しかし、このことは私たちに大変厳しい問いを突き付けます。主を仰ぎ見るとはどういうことなのでしょうか。かつて宗教改革者ルターは言いました。「正しい信仰のないところでは、人の心は神を斜めの目で見るのだ」と。「斜めの目で見る」というのは、面白い表現ですけれども、まっすぐに立っていないということです。神の前にまっすぐ立っていないということでしょう、心がまっすぐ神に向かわないで、別のところから、神を見上げてしまう。つまり、「自分への祝福」というところへのこだわりから見ているということです。そして、そのところが、罪の付け入る隙となるのです。私たちは神の方を向いているようでも、「自分」、「私」というものに固執しまうなら、神の前に立っているようで、実は神を斜めに見ることになってしまうのです。そういう危険があることを私たちは心にとめておかなければなりません。

 しかし、神は、カインが、いや、「私たちカインが」と言った方がいいかもしれませんけれども、私たちが、そのような罪に付け入る隙を与えることを願ってはおられません。だから、神はここで、すぐにカインにお語りになります。7節です。

「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せしている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」 

 この7節の翻訳は大変難しいようです。ですから、翻訳を読み比べると、実にさまざまな翻訳の可能性があることに驚くほどです。その中でも、私が興味深く読んだのは、カトリック教会のバルバロ訳と呼ばれるものです。そこにはこのように訳されています。

 「なぜいきどおっているのか? なぜ顔を伏せたか? あなたの行いがよければ、顔を高くあげてもよいではないか? だが、あなたの行いが悪ければ、罪は、待ち伏せする悪魔のように門の前に立っている。彼はあなたを占領しようとするが、あなたはかれを支配せねばならない」とこのようになっています。

 ここで「罪は待ち伏せする悪魔のように」となっているのです。新改訳だと「戸口で罪が待ち伏せしている」となっているところを、「悪魔のように」としているのです。ロルバロ訳のここの部分には説明がついています。この「戸口で待ち伏せする者」というヘブル語の言葉「ローベツ」という言葉が、アッシリアの悪鬼にあたる「ラビッシュ」を連想させる言葉だというのです。カインを悪鬼が待ち伏せしているように、罪が今か今かと待ち伏せして罠にかけようとしているというのです。このバルバロ訳の説明はさらに続いてこうあります。「しかし、いざないがどんなに激しいものにしても、カインは、そのつもりさえあれば、それに打ち勝つことができる。つまり、人間の自由意思を強調する」と。そのようにここで説明されているのです。これはとても大切な指摘です。神は、きつく断罪しているのではなくて、その誘惑に打ち勝つことができるという励ましだというのです。

 ここでカインの身に起こっていることはこういうことです。「神の祝福を受けたのは、自分ではなく、弟アベルである。しかし、そんなことを自分は認めない、認めたくもない。神がアベルを祝福して、自分が祝福されないなんていうことは不公平だ。こんな神の祝福を、自分は認めたくない。」こういう思いが、カインの心の中に浮かんできているのです。けれども、神は、ここで、「あなたの怒りは、本当に正しいのか?あなたはその思いを乗りえて、支配することができるのだから」と語ってくださっているということです。

 「義憤」という言葉があります。自分の憤りは、「義しい」、という正義に基づいた憤りのことを「義憤」といいます。人と言い争うその時に、自分の怒りは正当であると思うことができる時、人は非常に強く出ることができます。その時、人は考えられないほどの力を発揮することができます。

 以前、私は、私が出席していた説教塾という、全国の牧師たちが説教のために学びにくる集まりの中で、それを指導してくださっている加藤常昭先生からこういうことを聞いたことがあります。「『義憤に燃える』ということがある。人はその時自分は義しい、正義であると思いながら憤るときというのは、実はとても気持ちのいいことだ」と言われました。そして続けて「けれども、その自分の義しさに酔いしれた憤りというのは罪である」と加藤先生はっきり言われたのです。

 私はその時その話を聞いて驚いてしまいました。なぜかというと、そういう思いになることが私自身度々あるからです。人は怒りに燃えている時、それは気持ち良いと感じるのです。それは誰もが体験的に知っていることでしょう。正義感に酔いしれるのです。しかし、そのような自分の心の中から浮かび上がる、自分の正しさというものは、相手には相手の思いがあって、常に義しい、正義であるということなどできません。しかし、その時、自分の抱く怒りに酔いしれて、一方的な正義を貫き通そうとする時、それが何に根差した怒りであるのかということを、私たちは立ち止まって考えてみる必要があるのだと思うのです。この聖書のところから言えば、その怒りは「神に対して顔を伏せているではないか」ということです。

 私がこのように言いますと、ある人は、いや、私の怒りは、神の前に出ても正しいはずだ、と考える方もあるかもしれません。けれども、そこにこそ、この罪が戸口で待ち伏せしていると言わなければならないのです。自分の考えている正しさを、神の位置まで持ってくるときに、人は神のさばきを行おうとしてしまうのです。自分の考えだけが正しいなどということは、断じてないのです。

 考えていただきたいのですが、常に自分が正しいところに身を置いているなら、いつも他の人はその人が間違っているという弱者に立たされていることになるということを覚える必要があるのです。その人が常に、どんな時でも間違っているなどということは決して言えないのです。けれども、私たちはそのような、自らの義に酔いしれて、人を神のごとくに判断しようとする。それこそが、知恵を求めた人間の姿となってしまったということなのです。

 しかし、神はここでそのようなカインに対して、あなたはその憤りを治めることができると、命じておられるのです。命じているということは、神が励ましておられるということです。興味深いことですけれども、旧約聖書の命令形というのは、あなたにはできるのだからという「神からの励まし」なのです。私は旧約の専門家ではありませんけれども、文法的にそういうことが言えるのだそうです。

 神は、私たちに向かって言われる、「罪が戸口で待ち伏せしていたとしても、あなたはその怒りを、自分の正義を、罪を、治めることができる」のです。なんという、神からの信頼でしょうか。神が命じられることは、あなたにはそれができるからという励ましなのです。

 カインは、どうしたでしょう。彼は、神の願いに反して罪に飲み込まれてしまいます。8節をお読みします。「カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した」

 カインの心の中に支配した思い。それは「このアベルさえいなければ、自分が祝福されたはずだった」ということでした。カインは意地らしいほどに、神の眼差し(まなざし)を慕い求めたのでした。しかし、徹底的に「自分」にこり固まった思いは、愛すべき弟アベルを、憎しみの対象としてしか、もはや見ることができなくなってしまったのです。カインはアベルに向かってこう言うこともできたかもしれないのです。「弟よ、お前の礼拝は神が喜んで受け入れてくださった。私もそのことをともに喜ぼう」と。

 思い起こしていただきたいのですが、ここで起こった出来事は、神はアベルのものに目を留められたということであって、カインのものには目を留められなかったということではなかったのです。けれども、どうしても私たちはそう考えてしまうのです。誰かが選ばれれば、選ばれなかった自分はダメなのだと。けれども、そういうわけではないのです。だから、本来であれば「こいつさえいなければよかったのに」などと考える必要ははいのです。アベルがいなかったらカインが自動的に選ばれるということでもないのです。けれども、人の思いとは不思議なもので、片方が顧みられると、もう片方は、顧みられていないと考えてしまう被害者意識が働いてしまうのです。そして、そのような思いは、カインと同じように「あの人がいなければいいのに」という思いになって表れるのです。

 神はカインに尋ねます。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と。この神からの問いによって、一つのことが明らかとなります。それは、神の思いとカインの思いの相違です。

 神はここで、カインに尋ねます。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」。それは、「あなは、兄弟とともに生きているはずではないか?」という神からの問いです。しかし、この神の問いかけは、カインにはこのように聞こえてきます。「わたしが特別に愛したアベルは今どこにいるのか」と。そこでカインは考える。「神は、やはり私ではなくアベルのことを愛しておられたのだ」と。それで、カインは心の中でこう決めてしまうのです。「神は私のことを愛してはおられないのだ」。そうして、カインの心は開き直ってしまい、こう答えるに至ります。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか」。なんという悲しい、すれ違いでしょう。

 少しこの「番人」という言葉を説明する必要はあるかもしれません。この「番人」という言葉は、「見張り役」という響きを持つ言葉ですけれども、もともとは「牧者」という言葉です。「守り手」です。ドイツ語で「Hüter」(ヒュッター)という言葉ですけれども。この言葉の類語、近い言葉は「Torhüter」(トアヒュッター)、サッカーの「ゴールキーパー」という意味の言葉です。「ゴールを、守る人」なのです。カインは自分のことを弟の守り手。面倒を見てやらないといけない存在と理解したということです。

 礼拝の中で起こったほんの一瞬の出来事を通して、カインは神を見失い、兄弟をも見失ってしまいます。しかし、失ったものはそれだけにとどまりませんでした。つまり、働く収穫の大地からも呪いを受けることとなってしまうのです。12節です。「あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのためにその作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる」

 今やカインは一切のものを失ってしまいます。神を失い、共に生きるはずの兄弟を失い、自分を守ってくれる者ももはやなく、向き合う労働の場所である大地さえも失ってしまうのです。こうしてカインに残されたのは罪悪感だけです。こうして、カインは、エデンの東の地、ノデの地に住み着くのです。この「ノデの地」というのは、「さすらいの地」という意味です。「憩いの無い地」、「慰め無き地」です。

 創世記はこのようにして、人は神から離れたために、夫婦が離れ離れになり、兄弟が離れてしまい、そして、労働の大地からも引き離されてしまったと描き続けていきます。こうして、人間はエデンの東の地に住むことになるのです。かつては自分の住む土地の西にはエデンという神の楽園に生きてきたのに、今はその土地に住むことも許されず、けれども、そこから遠く離れることもできずにいる。それほどに、人はこのエデンを恋い求めたのです。

 エデンの東の土地に住む。そこに生きるならば、覚悟が求められます。カインにとってノデの地にはもはや自分を惹きつけるものは何もありません。希望すらないのです。ただ、あるのは罪悪感と、そこから生じる恐れです。それでカインは主に語ります。13節と14節をお読みします。

「私の咎は大きすぎて、負いきれません。あなたが、今日、私を大地から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう」

 このカインの絶望の言葉をお聞きになった神は、どうしようもないカインに一つのしるしをつけたと15節にあります。「カインのしるし」それは、カインの命を脅かす者からカインを守る、保護のしるしです。カインは、神を見捨て、兄弟を捨てたのにもかかわらず、そのようなカインに対して、神はそれでも守りの約束を与えられる。このしるしがあるかぎり、カインは神に見ていてくださるという平安を見出すことができるようになったのです。エデンの東での生活の中で、神は小さな希望を、カインの与えられたのです。

 神は、どれほど身勝手この者であっても、見捨てられないのです。考えられないほどの、配慮を神はなさるのです。そして、今私たちは誰もが、このカインの末裔としてこの世界で生かされているのです。今も、私たちはエデンの東、ノデの地、さすらいの地、慰め無き地に住んでいます。けれども、神は私たちに目を留めていてくださる。目を留めていてくださるばかりか、その私たちに目を留めていてくださるのです。

 今日は復活節の第四主日で、「ユビラーテ」と呼ばれる主の日です。これはラテン語で日本語では「全地よ喜べ」という名前の主の日です。復活の主が、この全世界を贖ってくださったことを喜ぶ日だというメッセージが込められています。確かに、人は罪を犯して、エデンの園から追い出されてしまいました。しかし、主イエスはイースターによみがえってくださって、この世界に希望を与えてくださいました。ここに神のあわれみが示されています。私たちは神のもとに帰ることができる。もう一度、神と共に生き、兄弟を取り戻し、労働の喜びを取り戻すことができるようにされたのです。

そして、実は今、私たちは、私たち主イエス・キリストを信じる者には、もう、すでに、この神の国、エデンの園で生きることが出来ようになっているのです。それが、主イエス・キリストを信じるということです。そうです、主イエスを信じる者は、この神の楽園、神の国に生きることができるのです。神と共に生きることができるばかりか、夫婦がしっかりと向かい合い、兄弟が支え合うことができる、そして労働に喜びを見いだせることができる、そのような幸いが与えられているのです。

お祈りをいたします。

笠松キリスト教会では、毎週会堂に生け花を飾っています。
今日はシャクヤクとジャーマンアイリスです。
きれいですね。♪