岐阜キリシタン小史(5)

 ―笠松町ゆかりの史跡、遺物―

 今回は笠松キリスト教会がある、岐阜県笠松町にゆかりの史跡や遺跡・遺物を紹介したい。まず、織田秀信である。この秀信について、今一度記したいと思う。

 秀信(1580-1605)は、信長の長男である信忠の長男として生まれた。信長の孫にあたる。幼名を三法師といい、1582(天正10)年、本能寺の変後の清須会議で織田家の後継者に選ばれた。1584(天正12)年、豊臣秀吉によって岐阜に封ぜられ、秀信と命名された。

 1595(文禄4)年、弟の秀則と共に岐阜で宣教師オルガンティノより洗礼を受け、城下には教会、病院、孤児院が建てられ、領内には多くのキリシタンが生まれた。1596(慶長元)年、中納言に叙せられ、「岐阜中納言」と呼ばれるようになった。残念ながら、秀信はその後の「関ヶ原の戦い」で西軍につき、その前哨戦となる「米野(こめの)の戦い」で敗れ、岐阜城に籠城するも東軍・池田輝政の説得に応じ岐阜城は開城、その後高野山に蟄居となり、1605(慶長10)年に同所にて没した。(「米野の戦い」については、笠松町の歴史未来館に詳しいパネル展示がある。)

「米野の戦い」記念碑

 余談であるが、筆者はこの秀信に大きな関心を持っている。もし秀信が長命していれば、日本のキリスト教の歴史は大きく変わっていたかもしれない。また秀信は岐阜城最後の城主であり、城主であった期間は約20年に及ぶ。今、岐阜城がある山麓の岐阜公園内で発掘作業が進んでいるが、秀信時代のキリシタン遺跡や遺物が発掘されることを期待している。 

 先に紹介した『尾濃葉栗見聞集』の中に当時キリシタンが住んでいた村々の名前が紹介されているが、その中に笠松町にあった村の名前がいくつもある。笠松小学校の中庭にはキリシタン灯籠がある。もともとは笠松町西町(笠松町歴史未来館の南)にあったとのことだが、由来はわからない。灯籠の下部にはマリア像が彫られている。キリシタン弾圧の中にあってもしっかりと信仰を守ろうとした人が笠松にもいたことがわかる。

笠松小学校にあるキリシタン灯籠

 また、笠松町円城寺の専養寺には、踏み絵やマリア像が残されている。おそらくこの地のキリシタンが滅んだ後に、この寺に預けられたものであろう。

踏み絵(笠松・専養寺蔵)

 そのほかに、上記の笠松町歴史未来館には「宗門人別帳」が保存されている。これらのいずれもがこの地にキリシタンが住んでしたことを裏付ける貴重な遺物である

「宗門人別帳」(笠松町歴史未来館蔵)

 先に紹介したが、江戸時代、笠松は幕府の直轄領であり陣屋があった。そしてキリシタンの処刑場もあった場所である。木曽川橋の下流右岸に、笠松町が整備したグランドゴルフ場の一角に「大臼塚跡」と書かれた標柱がひっそりと立っている。

文:笠松キリスト教会 K

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