岐阜キリシタン小史(4)

 ―御嵩町「中山道みたけ館」を訪ねて―

 可児郡御嵩町(可児市北東)は、江戸時代には中山道の宿場町として栄えたことで知られているが、それ以外にも白鳳期に創建されたという願興寺という古刹や、平安時代の歌人和泉式部のゆかりの地としても知られ、歴史好きには魅力的な町である。

 そんな御嵩町にある「中山道みたけ館郷土館」を過日訪れた。2階の展示室には縄文・弥生時代の発掘物、江戸時代の宿場のジオラマ、明治維新後の亜炭採掘坑内の実物模型など、興味深い展示物がいくつもあった。入場料が無料というのもうれしい。

 訪問のいちばんの目当ては潜伏キリシタンの遺物である。館内は写真撮影禁止であったため、この紙面で館内の様子をご紹介することができないことは誠に残念であるが、私が興味深く見学したのは、石に刻まれた「十字架碑」である。高さ30㎝ほどの黒石に深くはっきりと刻み込まれた十字跡を見て、刻み込んだ方の確固たる信仰が時空を超えて伝わってくるようであった。

 また、御嵩町では1981(昭和56)年、道路工事中にキリシタン信仰の遺物が偶然発見された。その後、小原、西洞、謡坂地内といった町内の各所でキリシタンの遺物、遺構が発見され、かつてこの地に隠れキリシタンが存在していた歴史が明らかになった。

中山道みたけ館郷土館

「中山道みたけ館郷土館」には、そのほかにもいくつかのパネル展示があったのだが、特に岐阜県の「各郡内のキリシタン信者出村比率」というパネルに目を引かれた。江戸初期の岐阜県内の各郡内の「キリシタンの出村数/全村数(%)」が岐阜県の地図に色分けして示されていた。それによると、厚見郡(現在の岐阜市南東)では40%以上で、続いて羽栗郡(同、羽島市、笠松町、岐南町)、各務郡(同、各務原市)、可児郡(同、可児市、御嵩町)が30%以上40%未満と続いている。ウィキペディアによれば、厚見郡には59の村があったとのことなので、40%以上とは24以上の村にキリシタンがいたことになる。同様に羽栗郡では63村のうち、21~25の村にキリシタンがいたことになる(村数は明治初年のデータであるので、若干の差異あり)。この地域には想像以上に福音宣教が広がっており、広範囲にキリシタンがいたということに私はとても驚いた。

 後日このパネル展示は、『尾濃葉栗見聞集』という古文書の記述を基に作成されたものだとわかった。この史料については、別の機会にご紹介したいと思っているが、この中に、キリシタンの迫害にあった村々として、笠松町の近隣の村名がいくつも記録されている(東小熊、北宿、南宿、徳田、円城寺、三宅、伏屋、薬師寺、柳津、竹ヶ鼻、長良、加納、大須、西小熊、嶋、市橋、不破一色など)。迫害は寛永元(1631)年ごろであったとのことである。

 この東海地方はキリスト教の「宣教の谷間」と言われているが、それはいかに秀吉時代~江戸初期にかけて、この地方におけるキリシタン弾圧が熾烈を極めたものであったことの証左ではないだろうか。以下は「中山道みたけ館」の展示パネルに書かれていた説明である。「美濃でも寛永年間より大規模なキリシタン検挙が行われ、多くの信者が処罰されており、可児郡でも寛文年間(1661~72)に最も激しい弾圧が行われました。これによって可児郡内のキリシタン信者は『隠れキリシタン』として潜伏することとなり、歴史の表舞台から完全に姿を消したものと思われます」。岐阜県の可児市~各務原市~岐阜市~羽島郡~羽島市の一帯、そして愛知県の犬山市・丹羽郡の一帯はかつて潜伏キリシタンの拠点であった。今この場所に住む私たちクリスチャンと同じクリスチャン(キリシタン)が400年前にも住んでいたかと思うと、言いし得ぬ不思議な繫がりを感じる。

文:笠松キリスト教会 K

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