聖書箇所:コリント人への手紙第二 3章18節
鴨下直樹牧師
今日は召天者記念礼拝です。今日こうして、久しぶりに顔を会わせる方々があることをうれしく思います。毎年のことですけれども、教会ではこのようにして、すでに天に召された方々のことを思い起こしながら礼拝の時を持っています。それはつまり、私たちの教会では一年に一度、みなさんと共に「死」について考える時をもっているということです。
私たちは普段、日常の生活の中から死をできるかぎり追い出して生活しています。死について考えますと、気がめいってしまうからです。けれども、誰も避けて通ることは出来ません。しかし、死を考えるということは、本当は何にもまして考えておかなければならないことです。自分のいのちをどのように終えるのか。その人生をしめくくるのを、漠然とした、もやもやしたものの中に放り込んだままでいることは、自分の人生そのものが、どこに向かっているのか分からないまま、もやもやと毎日を過ごしているということになってしまうのです。けれども、問題は、この死についてどう考えていいのかがよく分かりません。そのために、遠ざけてしまっているというのが、現状なのではないかと思うのです。それで、今日は、聖書が、この死の問題をどう考えているのかということを、少し一緒に考えてみたいと思うのです。
先ほども、言いましたけれども、私たちは普段、この死というものを日常の生活から締め出してしまっています。加賀乙彦というカトリックの作家がおります。この加賀乙彦さんは、もともと小説家であったわけではありませんで、もとは精神科医でした。ご自分の作品の中にも書いておられますけれども、特に、死刑囚と関わりながら、死と向き合うという問題に取り組んでこられた方です。この加賀乙彦さんの書かれた『生と死の文学』という本があります。以前も紹介したことがある話なのですが、大事なことだと思いますので、もう一度この方の言葉を紹介したいと思います。この加賀乙彦さんの描かれた「生と死の文学」の中でこんなことを書いておられます。少し長いのですが紹介したいと思います。
「私たちの時間は4つある。近い将来と近い過去、これは感情的なものに彩られていて、いきいきとした時間。遠い未来と遠い過去というのは、私たちの感情とは無関係に、つまり理性でもって、平生(へいぜい)に静かに考えられる時間であって、私たちは普通、死というものをその遠い時間の中に入れてしまっているのです。だから、私たちは死という問題をわりと平気で考えられるのです。しかし、明日死ぬと言われたら、これは大変ですね。死が目前に迫った。つまり、感情的な近い未来に迫った場合には、死に対して必死の反応をせざるを得ないでしょう。死というものが、その時間のどこにあるかによって、人間の生き方が変わってくるのです。」
この加賀乙彦さんの洞察は死刑囚と無期囚の死に対する受け止め方の違いから見出されたようですけれども、非常に説得力のある見方だと思います。私たちは普段、死というのは、遠い将来に入れて考えていますので、まだ考えなくても大丈夫と、どこかで考えているわけです。けれども、今日のように、こうして天に送った家族のことを思い起こす時には、どうしても、一度ここで自分のこととしても考えておく必要があるのではないかと思うのです。というのは、このことは、本当は先延ばしにしてよい問題ではないからです。
キリスト教会の葬儀を経験された方の多くの方が言われるのは、教会の葬儀には未来があるということです。未来と言ってもよいし、将来と言ってもよいのですが、葬儀の際に教会で語られるのは、人の生涯は死で終わらないということを明確に語ります。天にある希望です。よく葬儀で語られる言葉の一つに「天での再会」ということがあります。以前もどこかでお話したことがありかもしれませんが、私は葬儀の時に「天での再会」という言葉はほとんど口にしません。もちろん、天に送った家族とやがて再会するという希望がないというのではありません。天で家族と再会するということは確かにあるのです。幸いに私が言わなくても、葬儀の中で教会の誰かが言ってくれます。私がなぜ、その言葉を言わないかというと、「天での再会」は、聖書が語る福音ではないからです。
マルコの福音書の12章に主イエスが復活について語られた言葉の中で、こう言われました。「人が死人の中からよみがえるときには、めとることもとつぐこともなく、天のみ使いのようです」。25節の言葉です。この言葉は色々な人々が、実に想像力を働かせて考えられてきました。天で、別れた夫と再会しても、そこでは夫婦でないのはとても寂しいことだと思われる方が多いようです。天では私たちは完全な人格者へと変えられているのだとしたら、そうしたらそんな家族と会ってみたいという思いは、誰もが持つのかもしれません。聖書は天においても再び地上のような夫婦関係にあるということを否定しようとしているわけではありません。この世にあっては夫婦の絆、家族の絆というのは何にも代えられないほど大切なものです。しかし、そのような夫婦の絆、家族の絆を超えた絆、つまり神との絆というものは、この世界にある絆をもはるかに超えたものなのだということを主イエスは語られているわけです。それは、この世界の関係が、天でも同じようにつづくということなのではなくて、まさに、天においてはこの世のものとはまったく異なった、新しい神との関係があって、天ではそのような神との豊かな関係を築くことになるのだということを聖書は語っているのです。それは、新しい価値観と言ってもいいかもしれません。そして、それこそが福音なのです。天での再会は神様からの追加のプレゼントのようなものです。けれども、もっとも大切な贈り物は、私たちは天において新しい存在として神との関係に生きるようになるという知らせなのです。
私たちの主イエス・キリストはよみがえられたお方です。復活されました。それは、私たちを新しいよみがえりのいのちに生かすためです。この世界で生きることが、私たちのいのちの目的ではなくて、神が私たちに備えておられる新しいいのちに生きること、新しい神との絆による価値観に生きることこそが、私たちに備えられている本当の目的なのです。
では、天において私たちはどのようにされるのでしょうか。それが、今日の聖書の箇所です。
「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」コリント人への手紙第二、3章18節です。
この箇所は本当ですと、この書かれた18節の少し前の部分から読まなければなりません。この前のところの14節では、古い契約のことが語られています。旧約聖書の「旧約」という言葉はこの「古い契約」のことを意味します。このところでは、モーセの五書と呼ばれる神の律法が書かれているところを読むときには、いつも覆いがかかっている、ベールがかかっているのだとパウロは語っています。と言うのは、それまでの古い戒めでは、律法は「しなければいけないこと」として理解してきました。けれども、神との契約を「しなければならないこと」と理解していたのでは、その思いが覆いとなってしまって律法を与えてくださった神の背後にある思いが分からなくなってしまうのだというのです。
なぜ、神を愛するのか、なぜ、隣人を愛するのかが分からないのです。神を愛して、隣人を愛するという生き方が、どういうことなのか、何を神が願ってこの戒めを与えられたのか、その本当のところは理解できなかったというのです。それは何故か?それは、神と私たちの間に覆いがかけられていたからだというわけです。
では、この覆いはどうしたら取り除かれるのでしょうか?それは、主イエス・キリストがこの世界においでになられて、神を愛することはどういうことか、隣人を愛することはどういうことなのかを実際に、その生き方を通して示してくださいました。この主イエスによって示された、完全に神のみこころを知っておられるお方が、完全な神の愛を見せてくださいました。このお方を見ることによって、私たちは完全なお手本を見ることができるようになるのです。この主イエスのお姿を見ることを通して、私たちは私たちの前に覆われているその、カバーを取り除いて見ることができるようになるのです。
私たちは主イエスと出会って、主イエスを信じたときに、私たちの前におおいかぶさっているベールが取りのけられたことになるはずです。けれども、実際にはまだ、完全に、主イエスを直接目の当たりにしたわけではないので、私たちは、まだどう生きていいのかはっきり分からないところがあります。これが、この世に生きるクリスチャンの最大の悩みです。
どう生きたら良いのかが、まだ完全には理解できていないのです。けれども、私たちが、この御子イエス・キリストと直に顔と顔とを合わせて、完全にお会いする時には、いよいよはっきりと私たちがどう生きるべきなのかをしることができるようになるのです。
それはいつなのでしょうか? つまりそれは、私たちに死が訪れて、天において直接主イエスとお会いする時なのです。その時、私たちは、私たちが本当にはどう生きることが求められていたのかを知ることができるようになるのです。
しかし、死んでしまってからどう生きるのか分かっても仕方がないではないかと考える方があるかもしれません。けれども、そうではないのです。聖書は、私たちは「地上では旅人であり、寄留者である」とヘブル人への手紙に書いています。私たちは天において、神の身元こそが、私たちの本来生きるべきところなのだと、聖書は語っています。死んでからが本番です。だから、死ののちの、神の国での生活において、私たちは主イエスと顔と顔を合わせて知ることができるようになりますから、そこで、ようやく私たちは、私たちに与えられた神と、隣人との歩みを完全に生きることができるようにされるのです。
私たちは、今からすでに、神と共なる歩みを始めていきます。この世で、私たちは本来の生き方を知って、信仰へと導かれるのです。そして、今からどう生きることが主のみ思いに答えることになるのかを、聖書を通して教えられているのです。
神は、永遠のいのちへと私たちを招かれるお方です。そこで、私たちはその将来をどう生きるのかを、今から備えておかなければならないのです。聖書は、私たちの人生についてはっきりと書いています。漠然と、どうなるのか分からないというような不確かな、あいまいな生を書いてはいません。聖書ははっきりと、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」と伝道者の書の3章11節に書いています。
ある牧師が人生最高の幸福とは何であるかという説教をいたしました。その牧師はこういうのです。「それは他者による」と。「他人と関連してだけ、幸福という言葉が用いられる事態が発生するのです」とも言われました。
私たちは誰もが幸せに生きたいと思いながら、その多くが人との関係の中で苦しむことを経験します。そうやっているうちに、だんだんと他の人に対して期待することをやめてしまって、どんどん自分に自分にとその心が向かって行ってしまいます。そして、どんどん孤独を感じ、幸福感が失われていってしまうのです。
教会では毎年、この季節に召天者記念礼拝をいたします。そして、ご家族の方々に案内をお送りして、毎年大勢の召天された方々のご家族がこの礼拝に集ってこられます。そこには、豊かな関係があったのだということが良く分かります。一人の人がその生涯にわたって関わりを持ってきた人の数は考えられないほど多くの人がいるはずです。ですから、本当に一人の死ということが、どれほど大きな意味を持っているのかということを改めて考えさせられます。そのように、多くの人と関わりを持ちながら生活をするのにも関わらず、どう人を愛するのかを、良く分からないままに生きるとするならば、それは、それだけ多くの人に悲しみを負わせることになります。
しかし、神は、人との愛の関係を築いて生きるために、まず、何よりもその人をお造りになられました。そうであるなら、私たちにいのちを与えてくださり、私たちを愛してくださっている神の愛を知ることから始める以外に道はないのです。神は、この愛を私たちに知ってもらうために、イエス・キリストをこの世に送り、私たちがどう生きるべきかを教えてくださったのです。それは、誰もが、神が描いておられる幸いな人生を生きるようになるためです。
人生最高の幸福は、神に愛されていることを知り、人を愛することを知ることよってもたらされます。それは、主イエス・キリストのように生きること。それこそが、私たちの人生なのです。
お祈りをいたします。
