聖書箇所:創世記5章1-32節
鴨下直樹牧師

創世記5章1−32節 「神と共に歩む人生」
2025.07.13
先週、中野集会が行われました。その中野集会でお話ししたテーマは「老い」です。「老い」というのは、私たちはできれば避けて通りたいことと考えているかもしれません。「老い」という言葉から、あまり良いイメージは出てこないのです。
今日の聖書箇所である創世記第5章はどうでしょう。読んで皆さんはとても不思議に思われることがあると思います。それは、ここに記されている家系図の人たちはみた、恐ろしく長命なのです。アダムの全生涯は930年、次のセツは912年、エノシュは905年、ケナンは910年、その次のラハラエルは少し短くて895年。短くても895歳です。そういう長寿が当たり前という世界だと「老い」というのは、どんなものだったのかと考えさせられるわけです。そうだとすると、聖書ははじめから「老い」ということをネガティブに捉えてはいないのではないかと考えられるのかもしれません。
実は、説教の準備をしながら少し気になったことがあります。みんな長生きですから、何世代一緒に住んでいたのかと思って調べてみました。アダムは930歳まで生きています。計算すると、アダムがエノクの子どものメトシェラが生まれたとき、まだ742歳なので、7世代同時に生活していた計算になります。そして、8代目のレメクが生まれた時、アダムは929歳になっています。死ぬ一年前です。ですから、アダムは、レメクのひいひいひいひいひいひいじいさんが、アダムということになります。929歳でアダムが体が動かなくてひいひい言っていたかどうかは分かりません。
ただ、こうなってくると、「老い」って何だという話になってくるのかもしれません。子ども、孫、ひ孫、やしゃ子、きしゃ子とそれぞれだいたい100歳差あるわけですが、想像してみるとなんだか楽しくないですか?みんなおじいちゃんになるまで一緒に歩み、おじいちゃんばっかり7代も集まって生活するわけです。ちょっとその時の生活ぶりを想像するだけで楽しくなってきます。このころの100歳というのは、私たちの100歳ともだいぶ違っていたのかも知れません。
ただ、この第5章を読んでいると、「生きて」、「死んだ」、「生きて」、「死んだ」という言葉が繰り返されるわけですけれども、実際は、7代目まで誰も死んでいないわけです。7代目のメトシェラの時に、はじめて大祖先であるアダムさんが死んだことになります。ですから、それほど大きな死の悲しみというようなものを、この時代の人たちが経験してわけではなさそうなのです。ただ、このように聖書が書き記すことによって、人は死ぬ存在であるということをここで明確にしています。エデンの園がつくられたときに、人は死の存在ではありませんでした。ところが、人が罪を犯してから、人や死ぬ存在になったのだということが、ここで語られているわけです。
しかも、900歳という寿命が与えられていながら、ここに「生きて、死んだ」と言う言葉だけが繰り返されます。そして、その間に、子どもが与えられたという出来事だけが短く付け加えられています。しかし、900年と言う私たちからすれば膨大な時間が与えられていながら、その人生の中で起こるさまざまな出来事が、ここでは数えられていません。
この創世記第5章の目的は、1節に「これはアダムの歴史の記録である」と書かれています。「アダム」というのは「人」と同じ言葉です。人の歴史の記録を簡単に紹介すれば、生きて、生まれて、死んだということにまとめられるわけです。けれども、その「生きて」の中身が、ここではほとんど扱われていないのです。
このような単調な繰り返しは、私たちが読めば無味乾燥の感がありますけれども、あるドイツを代表する旧約学者(ヴェスターマン)は、「これを聞いた古代世界の人々には人生の豊かさと、多彩な彩りを感じさせたであろう」と言っています。それは、こうした当たり前の事柄の上に私たちの生活の中でドラマが築き上げられていくのだと、この学者は説明しているのです。
この系図で、大事なことのひとつは、単調と思えるような毎日であったとしても、この世で、彼らは生きた、ということです。この言葉にあるように、私たちの日ごとの生活も単調なことの繰り返しかもしれません。「誰々は、朝起きて、会社に行った。誰々は、その日の仕事をし、家に帰り、そして休んだ」。そういう毎日の繰り返しです。けれども、そのような毎日の繰り返しでですけれども、そこで生きている。生きているなら、そこで生き生きと生きるということが、大切でしょう。単調な毎日であっても、そこには、それぞれに実に豊かな人生体験というものが与えられるのです。そして、その一つひとつ毎日の生活に起こる事柄が、私たちの人生をつくり上げているのです。それが、生きるということです。
そして、この系図に書かれている、もうひとつのことは「死んでいった」ということです。生きるということと、死ぬということは、切り離すことはできません。ここには、人は死んでいく存在であることがここには書かれています。私たちは、生きている間、そのことを忘れようとするかもしれません。あるいは、そのことから目を背けたいと思うかもしれませんけれども、そのことから逃れることはできません。ちゃんと死と向かい合って生きることが、やはり大事なのです。
さらに、その中で、とても興味深い人物がここで3人取り上げられています。まず、「セツ」です。セツは、アダムの子どもあったカインとアベルを失ってしまいます。アベルは兄カインに殺されてしまいます。カインは、弟を殺したことで、さすらい人となってしまいます。こうして、子どもを失ったアダムに、主なる神は、「セツ」という子どもを与えてくださいました。ここに、人を見ていてくださる神の眼差しがあることが、明らかにされています。神は、アダムとエバの夫婦に、ふたたび子どもと共に生きる幸いを経験させてくださったのです。
その次に目に止まるのは「エノク」です。エノクは、前の4章でカインの子どもの名前でも出てきていますが、別人です。このエノクは「神とともに歩んだ」と書かれています。しかも、ここに2回も繰り返されています。他の父祖たち、おじいちゃん、ひいじいさんたちには「神とともに歩んだ」ということは書かれていないんです。それほど、このエノクという人は、他の父祖たちとはまったくことなる神への信頼を表し続けて生きた人であったことが分かります。24節にこう書かれています。
「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
父祖たちが、まだみんな生きている間に、エノクは父祖たちと同時代を生きています。私、気になって調べてみたんです。アダムとエノク、どちらが先に神のみもとに招かれたのか。アダムは930歳まで生きたのですが、エノクはアダムが死んでから35年後に、神のところに招かれているようです。ひょっとすると、アダムよりも先だったのかと思ったのですが、そうではありませんでした。計算違いでなければいいのですが、聖書の解説を読んでもこんな計算をしている人が誰もいなかったので、他の人はあまりこういうことに関心がないのかもしれません。
いずれにしても、神は、このエノクの立派な信仰をご覧になられて、死ぬまで待っていられなかった。はやく、自分のところに呼びたかったわけです。そのくらい、このエノクは特別だったわけです。
そんなことを考えると、こういうことを言って良いか分かりませんが、若くして天に召される方が時折あります。家族からすればもちろん大きな悲しみなのですが、神様はエノクと同じように、早くこの人をご自分の身元に招きたいとお考えになられたのでないか。そう考えることもできるのではないかという気がしてならないのです。
もちろん聖書は、長生きは神様からの祝福のしるしであるとも書かれています。ですから、長生きすることの喜びは当然あるわけですが、短い歩みの中にも、神様の思いがあると考えることもできるのではないかと思うのです。エノクは、他の父祖が900年を超えて生きている中での365年の生涯ですから、約三分の一ほどの人生です。エノクにとってみれば、その後の歩み、神と共にある歩みも、きっと大きな喜びの中に置かれたであろうことは間違いないのです。このようにエノクのようなケースがあることを聖書は初めの方に記している、このことはとても大切なことなのではないでしょうか。
そして、最後の三人目の人物として、ノアのことが29節から登場します。父レメクはアダムから8代目ですが、レメクは、ノアが生まれときにこう言いました。29節です。
「彼はその子をノアと名づけて言った。『この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。』」
ノアというのは、「慰め」という意味です。のろわれた世界の中にあって、慰めの存在となるだろうと、父レメクは言ったと言うのです。
ちなみに、これは完全に余談なんですが。ノアの洪水が起こったのがアダムの誕生から数えて1656年目です。ノアの父レメクが1651年目に777歳で亡くなっています。そして、1656年は、そのレメクの父、ノアのおじいちゃんのメトシェラが死んだ年が計算すると1656年です。この大洪水の年には、父祖たちの死亡年数がぴったり合うように記されていました。ちょっと計算してみたらぴったりだったので、びっくりして今日の説教とは直接関係ないんですが、どうしても言いたくなってしまいました。聖書に書かれている数字は、そのようにちゃんと計算されているんだということを、今回改めて発見したわけです。
次回創世記からお話しするときは、このノアの話をするわけですが、このノアによって神はまさに慰めを受けることになるのです。
今日の説教の冒頭で「老い」という話をしました。この創世記第5章を読んでいると、みんな900歳を超えるほどの高齢の歩みをしていますが、ここには「老い」というような考え方はまるっきり出てきません。実は、聖書は「老い」ということをまったくと言って良いほどに、ネガティブに捉えていないのです。
人生経験はすべてその人の中に蓄積され、次の世代に知恵として受け継がれていきます。神とともに歩んだ歴史は、そのまま人類の財産となっていったのです。今みたいに、なんでもスマホで検索して、答えが見つけら得る時代ではありません。ChatGPTもありません。そう言う中で、人々がより頼んだのは、父祖たちが神とともに歩んできて経験してきた祝福と知恵が、子どもや孫へと受け継がれてきったからです。
私たちの人生もまた、誰々は生きて、子どもが生まれ、そして死んだというような、無味乾燥に見える人生の繰り返しをしているような気がするのかもしれません。毎日毎日、朝起きて、今日の仕事をし、疲れて帰って、ご飯を食べて、風呂に入って、寝ました。そういう繰り返しの生活の中にあっても、神とともに歩むときに、そこには確かな祝福があるはずです。この神と共に歩む人生の祝福が、次の世代へと受け継がれていくとしたら、それはまさに、神の願っておられることです。
神は、人とともに歩まれるお方です。セツや、エノクやノアのように、その都度その都度、神からの働きかけを私たちは人生の中で見つけるようになります。このとき、大切なことは、私たちもまた、神とともに歩むという決断をしていくことです。そして、その歩みの中に、豊かな神の祝福がもたらされていくことになります。
神は、人ともに歩まれるお方です。ただの数字にしか見えないような、一年一年の積み重ねも、矛盾なく数えておられるお方なのです。
この主と共に歩むこと、ここに、私たちの幸いな人生があるのです。
お祈りをいたします。