主日礼拝メッセージ「男と女、互いの助け手として」2025/03/16

聖書箇所:創世記2章4-25節
鴨下直樹牧師

創世記 2章4節―25節 「男と女、互いの助け手として」 説教原稿 

2025.03.16 鴨下直樹

 この朝から、創世記の2章以下に進んでまいります。この2章を読みますと、本当に創世記は、大変美しい文章で書かれているということが良く分かります。それはまるで、映画を見ているかのようです。この朝、私たちに与えられているテキストは、創世記1章と内容が少し異なりまして。この創世記2章4節からまた、もう一度で別の視点で神の創造が物語られるのです。この第1章を「天地創造物語」と名づけるとすれば、この第2章の4節から3章の終りまでを「エデンの園の物語」と名づけることができます。

そして、この「エデンの園の物語」では、もう一度新しい視点、特に人間に焦点を当てて語りなおしています。映画のカメラの手法ではじめに全体の景色を見渡しながら、次に主人公である人間にカメラをクローズアップさせて撮るのと似ています。特にここでは主人公である人間が生きていくことになる「大地」、あるいは「土地」と言ったほうがこの場合正確ですが、その「土地」を神が供えてくださったことにまず焦点をあてて、次第に人間にカメラを向け直していくように記されています。

 この7節にこう記されています。「神である主は、その土地のちりで人を形造り、その鼻に息を吹き込まれた。それで人は、生きるものとなった」

「人」という言葉は「アダム」というヘブル語で記されています。「アダム」ここでは固有名詞、個人としての名前としてではなくて、集合名詞として「人間」を表す言葉として記されています。アダムというのは一人の人の名前ではないわけです。特に、この7節にでてくる「大地」とか、9節に出てくる「土地」という言葉は、ヘブル語で「アダマー」と言います。これは、人、「アダム」というのは、土地のちり「アダマー」から造られた存在であると書かれているわけです。

なぜ、この2章に入ってもう一度人間のことが説明されているかというと、人間、「アダム」は神の被造物であるというここで改めて語り直さすことによって強調しているわけです。この人間は、他の動物や植物もこの土地から造られた神の被造物であって、それは、人が死ねば土に還る「ちり」にすぎない儚い存在であるということを言い表しているのです。

 その意味では人間は、他の神がお造りになられた被造物である動物と、何ら違いはないのです。けれども、7節で神はその人間に「いのちの息を吹き込まれた」とあります。ここにもうひとつ別の人間の大切な意味が込められています。この「息」ということばは「ルーアッハ」というヘブル語で、「霊」とも訳すことのできる言葉です。神の霊が、人間に与えられたのだと記しているのです。これは、1章に書かれていた、「神のかたち」を言い換えているとも言えます。人間は神の霊を頂いているので、他の動物とは異なって、神との交わりを持つことができるのです。そして。ここに、人間が他の被造物とは全く異なった、神に特別な存在とされていることが分かるのです。このように、創世記の第2章は、「エデンの園の物語」として記すなかで、人間に焦点を当ててもう一度語り直しているのは、ここに記されていることがそれだけ大切な意味を持つからなのです。

 

少し新約聖書のパウロの言葉を紹介したいと思います。パウロが書いたコリント人への第1の15章の45節から49節にこんな言葉があります。

 こう書かれています。「最初の人アダムは生きた者となった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者はみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属するかたちをも持つことになるのです。

 少し長い箇所ですけれどもお読みいたしました。ここに、パウロの独特の理解が示されています。アダムは土の人であったけれども、最後のアダム、つまり主イエスのことですけれども、私たちの主イエスは天からの人であった。そして、この主イエスに属する者は、天に属する方である主イエスに似ていると言うのです。これは、主イエスによって、人間はもう一度新しく生まれる。それは聖霊によって生まれるのであって、その人は、すでに天に属する者なのだと語っているのです。

 これは、素晴らしいパウロの理解です。これまで、この創世記の箇所をそのように理解した人はおりませんでした。私たち人間、アダムは、土から出来た者です。そして、この後で、おそらく次の機会にお話しすることになりますけれども、アダムは、罪を犯してしまうために、神のかたちを失ってしまいしまいます。今日の聖書の言葉で言えば、「神の霊」を失ってしまうのです。けれども、主イエスによって、私たちはもう一度、新しい存在として神に再創造していただくことができるようにされた。そして、それが、主イエスが私たちに与えてくださった救いであり、私たちが失ってしまった神の御霊の回復です。

 さて、では私たち人間はどうして神の霊を失ってしまったのでしょうか。どうして、神のかたちを失ってしまったのか。その元となる出来事が、創世記のこの後に出てくるエデンの園のところに記されています。創世記第2章16節から17節をお読みいたします。

 神である主は、人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」

 エデンの園の真ん中には二本の木が植えられていました。その一つは「善悪の知識の木」で、もう一つは「いのちの木」と呼ばれる木です。そして、神は人間に一つのことをお命じになりました。それが今読んだところ、「善悪の知識の木からは、食べてはならない」という命令です。神は、こうしてひとつの責任を負わせられました。

 この聖書の箇所は、これまで創世記を話した中で、何度も質問を受ける箇所です。どんな質問かというと、「神様はどうして人間が罪を犯すと分かっているのに、善悪の知識の木を置かれたのですか」という質問です。多くの人はそのことに疑問を持つようです。人間にはできないことが、分かっているのに、それをやらせた神はひどいというのです。できないと分かっているのに、そういうことをさせるのは、神様の方に問題があるというわけです。これに似たような質問は、創世記に関してだけでなくともいくつも出すことができると思います。この手の質問はどれもそうですけれども、簡単に言ってしまえば、神への責任転嫁でしかありません。

 先ほどもお話ししましたが、神は人間と向かい合う存在として造られました。それが、神の息が私たちに吹き込まれたということです。これは、人が神のかたちに造られたということです。こうして神のかたちとして造られた人間は、神と共に生きることになるわけですから、神が人間に求めておられることを、人間は応えて生きることができるのです。

また、ここで一つの禁止事項を与えられたというのは、無理難題を押し付けたということではなくて、自分で判断して行動してくださいという意味がそこに込められていることになります。つまり、ここで神は人間に自由意志を与えられたということを意味しているわけです。神は、私たち人間を、まるでロボットのように、いつも命じられることをそのまま行うだけのものとはしないで、自分で考え、自分で決断だけるものとされました。これは、私たちにとって嬉しいことです。というのは、神に信頼されて生きることができるからです。

 せっかく神様から信頼してもらって、自分で判断する責任を与えられたのに、それがうまくいかなかったら、そもそも神様が無理難題を押し付けたというのは筋違いです。

この時神は、「善悪の知識の木からとって食べる時、あなたは必ず死ぬ」と言われました。この「死ぬ」というのは、神との関係のことをここで言っています。神から信頼されて、神と向かい合う存在として造られた人間は、この約束を守ることができないならば、この神との深い関係が壊れてしまいます。神との関係が完全に終わってしまう。これを「死ぬ」と言っているわけです。もし、私たちがこの神の信頼を裏切るならば、人間は、死ぬことになる。神がお造りくださった人間ではなくなってしまうのです。つまり、私たちに与えられた神の霊を失ってしまい、ただの土くれとなってしまうのです。それは、たとえ心臓は動き続けていたとしても、見た感じは生きているように見えていても、神の前には死んでいるのと同じ、いのちのない存在となってしまうのです。

 さて、しかし神は人間が完全な存在ではなく、誤った決断をしうる存在であることをよくご存知でした。続く18節にこのように記されています。

 

 また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

 ここに「人がひとりでいるのは良くない」とあります。この言葉は聖書に出てくる最初の否定的な言葉です。神は人間が孤独な存在でいることを「良くない」と言われたのです。孤独な状態というのは、対話がない状態です。そうなると、自分の考え方が良いのか悪いのかを判断することも難しくなってしまいます。それが、主は人に対話の相手を造ってくださいました。それが「ふさわしい助け手」の存在です。

 その時、人のもとには動物がいましたが、動物はふさわしい助け手とはなれませんでした。我が家にも犬がいます。はじめのころはトイレの場所を教えたり、餌をやる前には「待て」をさせたりという「しつけ」をします。けれども、あっという間にいうことを聞いてくれるようになります。動物は私たちの生活に刺激を与えてくれますし、とても大切な存在ですが、「ふさわしい助け手」とはなりませんでした。

 ところで、この「ふさわしい助け手」という表現に対して少し違和感を感じたり、もっとはっきり言うと、「嫌だなぁ」と感じられたりする方があるかもしれません。この「助け手」というのは、すぐ後で「女」が造られたと書かれています。女は男のヘルパーさんのようなイメージというのが、どうしても感じられるかもしれません。

 この「ふさわしい助け手」という言葉ですが、まず「ふさわしい」という言葉ですが、これは、元は「互いに向き合う」という意味の言葉です。また「助け手」も「ヘルパー」という意味ではなくて「補い合う存在」という意味です。つまり、互いに欠けがあるので、補い合う存在がとして、神は助け手を備えられたということです。決して、男がメインで、女はサポートという意味ではありません。

 今日の説教題を「男と女、互いの助け手として」としました。神は、人を創造された時に、「男と女」を創造されました。この男と女は互いに助け手として創造されたのです。22節にこう書かれています。

「神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ」

 ここには、人のあばら骨から女に造り上げられたとあります。こういう書き方も気になる方があるかもしれません。これも女は男の一部から造られたので、女は男より劣っているというような意味ではないのです。そうではなくて、あばら骨というのはどこにあるかというと、心臓を守っている部分です。つまり、この表現は、女は男のいのちそのものであるということを言い表しているのです。女は男のいのちそのものとして創造されたのです。

 そして、最後の24節と25節です。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。その時、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」

 ここは、結婚式の時によく読まれる聖書箇所です。この箇所もとても興味深い聖書箇所です。はじめの人間が結婚した時のことが書かれているのですが、はじめの人ですから、父も母もまだいないわけです。それなのに、「父と母を離れ」と書かれています。しかも、ここでは「妻が父と母を離れる」のではなくて「男は父と母を離れ」とあります。これはどういうことかというと、聖書は、いわゆる家制度というような考え方を持っていないわけです。何々家の子孫繁栄のために嫁ぐというような考え方はもっていません。男は父と母を離れるからです。父と母を離れるわけですから、夫婦は新しい二人だけの文化をつくりだしていくようにされているのだと聖書はその最初の結婚の記事のところで、そう書いているのです。しかも、この「離れる」というのはとれも強い言葉で「見捨てる」という意味の言葉です。先週お話しした、主イエスの十字架上での叫びの言葉である、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」の「見捨てる」と同じ言葉です。父と母を見捨てる、見放す、その家のこれまでの習慣を捨てて、そうやって新しい二人の生活を始めていくのです。

 これは、まさに結婚生活が男中心ではないという、聖書の大切なメッセージです。「父と母を離れ」のあとはこうです。「その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。その時、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」

 妻と結ばれ、ふたりは一体となる。この「一体」と言う言葉も面白い言葉です。もともとは「一つの肉」という言葉です。男と女は別人格です。それが、あばら骨から女を取ったと記されていたように、異なる二人の人格は、結婚することでまるであたかも一つの肉体であったかのようになるほどに、一つとなっていくのです。ここには、妻は子どもを産むための手段であるとか、女は財産であるというような考え方は含まれていないのです。

 そして、さらには、「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあります。これは、完全に相手に対してオープンでいても恥じることは何もないというのです。隠し事は二人の間にないのです。夫に言えない秘密がある、妻に言えない秘密があるというようなものは一切ないのです。

 男と女は、神によって互いに向かい合う存在として創造されました。そして、人には神の霊が与えられ、神のかたちを持っています。私たちの中で働かれる神の聖霊は、互いの弱さや、不完全さを支え合うために必要な助け手です。そして、聖霊に助けていただきながら、私たちは互いに助け合う者とされています。これは、男と女の関係だけにとどまりません。「わたしとあなた」という隣人の関係もそうです。私たちは他の人、隣人との関係においても受け入れ合うことを主は求めておられます。

 「人は一人でいるのは良くない」と主は言われるように、人は完全な存在ではありません。助け手が必要です。助け手なしにうまくいかないのです。それで、助け手を主は備えられたのです。こうして主は、私たちを信頼し、善悪の知識の木の実を食べなくても、互いに支え合って生きることができるのだと励ましてくださっています。私たちのことを信じてくださっています。お互いに助け合うならそれができるのだというのです。そのためには、隠し事のない信頼関係が必要です。そのような関係を作り上げていくために、まずは夫婦という形を主はお示しになられたのです。

 私たちは誰もが助け手を必要としています。結婚をしている人も、そうでない人も、誰もが助け手を必要としています。この一番大きな助け手は聖霊なる神です。聖霊が与えられる時に、私たちは神の前で生きることができることができます。創世記2章の時点では、人は神からの「いのちの息」である聖霊が与えられていました。そして、その次に、お互いに信頼し合い、向かう会うことのできる人として、男と女をお備えになられました。私たちは他者を必要としているのです。そのためには、自分は不完全であることを認めて、他の人々を信頼して生きる。ここに、神の願われた人の姿があるのです。

 主は私たちを信頼してくださるお方です。そして私たちに助け手を備えてくださるお方です。私たちは誰もが、誰かの助け手となるのです。私たちは誰もが一人では生きられないからです。助けてもらうことだけでなく、助ける人となること、そのことを覚えることが大切です。こうして私たちは互いに助け合い、支え合うことを通して、神のみ思いをこの世界に示していくのです。

 お祈りをいたします。

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