主日礼拝メッセージ 使徒信条による信仰9「死と陰府とを治める主」2025/04/13


聖書箇所:マタイの福音書27章57-66節

鴨下直樹牧師

マタイの福音書27章57-66節「死と陰府をも治める主」

使徒信条による説教09

2025.04.13

 長い間、私たちは受難節の期間を過ごしてまいりました。そして、今日からいよいよ受難週に入ります。今日は「棕櫚の主日」と呼ばれる主の日です。主イエスがイスラエルの都であるエルサレムに入場されたことを覚える主の日です。そして、今週の金曜日には受難日、主イエスが十字架にかけられる日を心にとめようとしています。

 そんな中で、私たちはこの朝、使徒信条の信仰告白のみ言葉に耳を傾けようとしています。今日のところは、前回お話しした主の十字架に続いて「死にて葬られ、陰府にくだり」という告白をしています。今日皆さんと共に聞きたいと思っている使徒信条の信仰告白の内容は3つあります。それは「主が死んだこと」、そして「葬られたこと」、「陰府にくだられたこと」の3つです。

 

  中世の教会で、その頃よく語られた言葉のひとつに「メメント・モリ」という言葉があります。どこかで耳にしたことのある方もあると思います。日本語にすると「死を忘るるなかれ」と訳されるラテン語です。

 この言葉は中世のある修道院においては、毎日の挨拶の言葉であったそうです。朝起きて、修道士同士が顔を合わせると「メメント・モリ」と声をかける。一日の労働のなかで、誰かと会えば、「死を思っているか?」と問いかけるのです。私たちはそういう言葉を普段交わすことはありません。ですから、この受難週にこの「メメント・モリ」という言葉を思い出させるように、主イエスが死なれたという言葉を耳にするということは、案外大切なことであると思うのです。

 この「メメント・モリ」という言葉は、もちろん、キリストの死ということと切り離されてはいません。使徒信条の告白に目を止めてみたいと思います。

使徒信条が興味深いのは、「主は十字架につけられ」と告白し、その後で、死んで、葬られたということもきちんと告白しているということです。何が興味深いかというと、本来であれば「十字架につけられた」ということと、「死なれた」ということは、本当は同じ意味のはずです。ところが、ここではもう一度丁寧にまるでその死を言い含めるかのように告白しているのです。なぜ、こんなに丁寧に告白しているのかということには理由があります。というのは、キリストが死なれたということが、信じにくいことなので、実は仮に死んだだけではないか、実はフィクションではないかという考えが教会の中に広がってきたという背景があったのです。

 これは、考えてみればよく分かることです。神が死んでしまうということほど、考えにくいことはありません。死んで葬られてしまう神ほど、神様らしくないことはありません。ですから、十字架の上で、神の霊だけはどこかにいってしまって、キリストは、死なれなかった。後にこの考え方のことを「仮現説」とか「ドケチズム」言うようになりました。「仮現」というのは仮に現れたと書きますけれども、そういう考え方が教会にでてくるようになったのです。だから、教会では、キリストの死は、私たちと同じような死であったと教える意味も含めて、このように告白するようになりました。

いや、それだけではなくて、「葬られた」ということまで告白することが大事だと考えるようになったのです。というのは、私たちは普段、死について忘れていたとしても、あるいはできるだけ考えないようにしていたとしても、やがては死ぬ存在だからです。そして、葬られる存在なのです。

 さきほど、司式者の方がマタイの福音書の27章57節以下を読んでくださいました。ここには、主イエスの葬りのことが記されています。ここにはとても興味深い出来事が記されています。主イエスは死なれ、葬られました。その経緯が記されています。お墓に入ればそれで十分主イエスの死のことが分かるはずです。ところがそれなのに、その墓に見張りの番を立てる。番を立てるだけでなく、封印までする、言ってみれば、完全に葬られたわけです。誰も手出しすることができないようにされたのだということが、ここに記されています。大抵の場合、十字架に(はりつけ)にされたものは、死体は埋葬されず、葬らないで野ざらしにされることが普通であったようです。ところがアリマタヤのヨセフはピラトに願い出て主イエスの亡骸を十字架から取り下ろし、その亡骸をぬぐい、亜麻布で包んだ。安息日でしたから没薬を塗ることは許されませんでしたが、丁寧な葬りをしたというのです。しかも、封印され、番まで立っている。番を立てるということは、人間にはもはや誰も手を出すことはできないということです。そのようにして埋葬をしたのだと記録しているのです。

葬りをしたということは、ここで主イエスへの神の裁きが終わったということでもあります。この葬りが新しい出来事の始まりを生むことにもなるのです。

 私たちも教会で葬りをいたします。教会での葬儀というものを大変大切にいたします。葬ることを通して、神の御手に亡くなったその人をあずけ、新しい出来事がはじまることを期待する。そして、それだけではない、主が葬られたことによって、私たちは葬りが、死が、完全に孤独になってしまうことではないということを知ることになるのです。確かに人が死を迎えた後は、誰ももはや手出しをすることはできません。しかし、教会で葬儀をするということは、「主イエスと共に死ぬ」、主イエスがその亡くなられた方と共におられるという、この幸いを告げるためだということができるのです。

 使徒信条は、「死にて葬られ」に続いて「陰府にくだり」と告白しています。「陰府」という言葉ですが、多くの日本の神学者は、この日本語の翻訳が実にすぐれていると言います。「陰府」というのは、裁きの世界を指す言葉です。たとえば、英語などではここで「ヘル」、「地獄」という言葉で訳されています。

 キリストは死なれ、葬られ、地獄にまで行かれたと聞くと、人は想像力を働かせて考えます。なぜ、主イエスは地獄まで行かれたのだろうかと。

 しかし、この「陰府」という言葉も、日本語にも本来あった言葉ではありません。新しく作った言葉です。「闇が治めているところ」という意味です。闇というのは、神の光の届かないところです。希望のないところを指す言葉です。

 この言葉が使徒信条に加えられるようになったのは、起源390年頃にルフィヌスという神学者が主張するようになって、8世紀ごろに定着するようになります。始めから使徒信条の中に入れられていたわけではなかったのです。なぜかというと、当時、キリストの死に対する嫌悪感がひろがり、主イエスの人間性を否定する神学が教会で広がったためでした。けれども次第にこの「陰府にくだり」という告白が使徒信条の中に組み込まれるようになっていきます。それは、主イエスは十字架の上に完全に死なれた。陰府に行かれるまで、神の光が届かないところまで、完全に死んでしまわれた。そのような意味を込めて告白したのです。

しかし、これが後年になって思わぬ展開をとげることになってしまうことになります。それが「煉獄(れんごく)思想」というものと「死者への福音」と呼ばれるものです。

 これらについて、丁寧に解説する時間はありませんが、少し話しておく必要があると思います。「煉獄」というのは、聞いたことがある方も少なくないでしょう。

 人間は死んだらどうなるか? 天国に行くか地獄に行く。人々はすぐにそう考えました。けれども、そこである人たちはこう考えました。キリストが陰府に行かれたということは、そこに死者がいる場所があって、神の裁きの時までそこで、天国に行くか、地獄に行くか、あるいは、まだ決まっていない人の中間地点があるのではないか?と。こうして、人が死を迎えた後、神の裁きのまでの間の中間地点のことを「煉獄」と呼んだのです。天国と地獄に行く前の待合室のようなものです。もちろんそこには、のんびりとソファーにでも座ってくつろいで待っている場所とは誰も考えません。ここで、死んだ人間は、苦しみを受けながら、生前に侵した罪を裁かれる。燃える炎の中で苦しみながら、神の裁きを待っているのではいかと考えるようになったのです。

けれども、そう考えると、またそこから派生してもう一つの考えが浮かんで来ます。人は死んでも、まだ裁かれないで、どこかで待っている場所があるのであれば、そこから救われる可能性もあるのではないかと。そうすると、後からでも、亡くなった家族のために祈ることも可能ではないか。亡くなった家族のためにミサに与って徳を積むこともできるのではないか。そうして、徳を蓄えれば、その家族も救われるのではないかという考え方が生まれてしまいます。それを「死者のとりなし」と言いますが、そういう考え方が生まれるようになってしまったのです。こういう考え方が中世の教会の中から生まれるようになっていったのです。

けれども、もちろん、こういう考え方は聖書にはありません。それは人が想像し、そこから派生して出てきた人間的な考えでしかありませんし、私たちはそのように考えてはいません。

そもそも「地獄」というような場所についても、聖書ははっきりと語ってはいません。もちろん、ゲヘナとか、ハデスとかという表現がありますが、それもエルサレムの城の外にある焼却場のことで、神の裁きの比喩的な表現としては描かれていますが、私たちがイメージしているような地獄というものではありません。

聖書が確かに語っているのは、私たちが死を迎えた時に神の裁きがあるということです。よくイメージされる地獄というのは、永遠の炎の中で、永遠に燃える火の中で苦しむ姿、これが地獄だというイメージを持つことがあります。それはたとえば、主イエスがたとえで話された、金持ちとラザロのたとえ話がルカ福音書16章にあります。ちょうど先週の聖書の学び会で学んだ箇所でもあります。この箇所に金持ちとラザロが死んだ後のことが書かれています。金持ちは火の燃え盛るところにいて、ラザロは「アブラハムの懐」と呼ばれるところにいたと書かれているのです。この箇所から、死後にはそのような一時的な待避所のような場所があるのではないかと連想されるようになってしまいます。しかし、これも主イエスがお語りになった譬え話です。しかも、この譬え話は、死後には誰も介入することができないのだから、生きている間に聖書からそれぞれが神に応答するがあることを告げている箇所です。死んでしまってからでは遅いということを語るための譬えです。それなのに、人が死んだ後からでも、何とか救われる方法があるのではないかと考えるのは、このような聖書箇所からも反した考えということになります。

あるいは、こういう考えを持つ人もいます。人は死後に肉体はなくなってしまうけれども、魂だけが残っていて、その魂が地獄で永遠に苦しむというような考え方を持つ人が教会の中にもあります。聖書の中には、霊とか、魂のことは描かれていますけれども、そのような魂だけが永遠の残るという考え方は聖書の考え方ですらありません。この「霊魂不滅説」という考えはプラトンの哲学からきたものです。私たちは、陰府とか、地獄ということがらについて教会の中にも、実に間違った多くの考えがあることを覚えておかなければならないのです。

 先ほどのルカ16章の金持ちとラザロの譬え話からも明らかなように、二つ目の「死者に福音をとどけるため」ということも、聖書の教えと明らかに相容れない考え方です。

 ただ、ひとつの聖書の箇所をお読みしたいと思います。Ⅰペテロ3章18-20節にこうあります。

「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。

 ここを読むと難しい箇所なのですが、何となくキリストは陰府にくだられた後で、その人たちのところに行って、福音を宣言されたと読めなくもない聖書箇所です。これは、新約聖書の中でも、難解聖書箇所に数えられる一つです。実は、ここから人は死んだ後でも、そこにイエス様が行かれたので、死後にも福音を聞いて救われるチャンスがある、いわゆる「セカンドチャンス」の教えが描かれているのではないかと考える人たちが、とても少ないですがそんな考えを持つ人がいるのも事実です。

 この箇所でも重要なのはこのペテロの手紙が語っている「捕われている霊たちのところに主イエスの死後に行かれた」と読めるわけですが、問題はこの「捕らわれている霊たち」とは誰を指すかということです。

 これは大きく分けると3つの解釈があります。一つ目は、福音を聞かないで死んだ人々のことだという考えです。これが、セカンドチャンスを主張する人の解釈です。けれども、そうやって読むと、この後に書かれているノアの時代の話の説明がうまくできません。

二番目の理解は、この後に書かれているノアの頃に福音を聞かないで滅ぼされた人たちのことを想定しているのではないかという理解です。

三番目の聖書が「霊」という言葉を使うときに、死んだ人のことを使っている場合はほとんどありません。その場合は「魂」という言葉を使います。そうすると、当時読まれていた外典であるエノク書というものがあって、第二ペテロとかユダの書の中にでも、そこに出てくる「堕天使」のことを記しています。この書物のことを意識して語ったのではないかということを想定しているのではないかという説明です。

 最近、『新約聖書難問註解』という本が最近出版されました、ここを呼んでみましたがやはりこの三つのことが書かれていました。ただ、この箇所はどう考えてもセカンドチャンスの可能性を語っている箇所ではないことは明らかです。

というのは、ここで明らかなことは、聖書のこの箇所はペテロが強調しているのは、よみで福音を聞いた人が救われる可能性があるということではありませんでした。その箇所でペテロが強調している点は、「八人だけが水を通って救われた」ことです。ペテロがこの手紙で語っていることは、宣教することの大切さであって、この箇所もこれ以上のことは何も語っていないのです。教会の宣教の活動を通してバプテスマを受けた人が救われると言っているわけです。ですから、この箇所を安易に、「死者に福音を語った」として取り扱うことはできないわけです。

 ただ、こう言うことは許されるかも知れません。キリストの福音というのは、私たちの思いを超えているということです。ペテロは、ノアの洪水の時に、大勢の人が福音を知ることもなく亡ぼされてしまった人の思いを向けています。このことに思いを寄せながら、このような福音を聞いたことのない人たちにも、神が何らかの宣言をなさったのではないかと考えたからこう書いたわけです。

 私の子どものころですけれども、父に連れられて、いろいろな伝道集会に行きました。たくさんの伝道説教というのを聞いて育ったと言って良いと思います。そのような伝道集会で当時よく語られたのは、「神の裁き」の説教でした。そういう時代であったのかもしれません。神を信じないと裁かれる、滅んでしまう。地獄に行くというのです。

そういう説教を子どもの頃に聞きながら、いつも子どもながらに悩みました。「僕は神様のことを知っているし、信じている。救われているけれども、僕の友だちはどうなる。友だちの家族はどうなる。自分だけ救われているのはいいのだろうか?」そう考えたものです。なんだか気が引ける思いがしたのです。特に信仰を持たないで、死んでいった人々のことで心が痛むのです。押しつぶられそうな気持ちになるのです。

けれども福音を聞いていない人たちに対して、私たちにできることはただひとつのことです。それは、その人の命を神に託すということです。そして、今の私たちにできることは、伝道に励むということ以外にありません。

 これは私だけではない誰もが持つ思いなのだと思います。ただ、神の福音は、私たちの思いを超えている。そう信じて、そのような人々のいのちについては神に託すことしかできません。そして、今、自分にできることをしっかりすることしかないのです。 

 主は死なれました、葬られました。そして、陰府にくだられました。では、この主イエスが陰府にくだられたということは、どういうことなのでしょうか。

 私はこう理解しています。陰府というのは、最も深く神から引き離されたところです。神の光が届かないところです。そして、そこまで主は行かれたということです。

 「低点」という言葉をご存じでしょうか? 「頂点」というのは、たとえばピラミッドのいちばんてっぺんのことを「頂点」といいます。しかし、この「低点」というのは、その逆の点です。逆さになったピラミッドを想像していただければ良いと思います。そのもっとも下にある点です。言ってみれば、この世界のもっとも深い点のことです。

 そして、低点にはそれよりの下はない、低い所がないところということです。この主イエスが陰府にくだられたという信仰告白は、主イエスがこの低点に立たれたということを意味するのです。何のためにでしょうか?それは、私たちを救うためにです。

 私たちは何かつらいことがあると、落ち込みます。(へこ)むと言う言葉を使うこともあります。何だか穴に落ち込んだような気持になる。そして、それは時としてもう這い出すことができないのではないかというような、思いにとらわれるほど、深い淵にたたき落とされたような気持になることがあります。私たちはそう言う時に、自分は今低い所にいると、自分で理解しているわけです。

 自分の失敗のために、あるいは、人からの何がしかの行動や言葉のために、あるいは、それこそ、死を通して、病気を通して、いろいろなことが私たちの身に降りかかる。こんなどん底にいて、もはや自分は立ち上がれないと思う。いっそうのこと、その穴の中で、生き埋めにされた方が楽なのではないか?と思えるほど、厳しい状況におかれることがあります。

 あるいは、私たちが罪を犯す。犯し続ける。やめられない。分かっていてもやめることができない。自分はみじめだという思いに捕らわれる。そして、そこにはキリストの言葉が届いてこないような気持ちにさえなるのです。何とかここから立ち上がりたいのに、立ち上がれない。どうしようもない、みじめな自分の姿を否が応でも見せられるのです。自分が今、低い所に置かれているということは、誰からから言われなくても、自分でいちばん良く分かる。

 しかし、知っていただきたいのです。主イエスは、私たちが味わうよりももっと下に、もっと低いところに立っておられるということを。いちばん下、まさにこれ以上ないという、まさに低点に主イエスは立っておられるのです。

 何のためにでしょうか? それは、あなたを支えるためにです。

 主がこのもっとも低いところで、踏みとどまって、それ以上私たちが落ち込んでしまうことがないように、喰いとめていてくださる。それが、「主イエスが死んで、葬られて、陰府にくだられた」ということを信じると告白の内容です。

 みなさんは、このことを信じますか? 主イエスは、あなたのために死んで、葬られて、陰府にまでくだられたと。

ぜひ、信じていただきたいのです。主はそうして、私たちを生かしてくださるのです。

   お祈りをいたします。