主日礼拝メッセージ  ノアの箱舟3「大洪水の中で」2025/11/23

聖書箇所:創世記7章17節-8章19節
鴨下直樹牧師

創世記7章17-8章19節 「ノアの箱舟3 大洪水の中で」
2025.11.23

「船」という漢字があります。「舟」というへんに「八」と「口」という字を書きます。
この漢字はノアの箱舟に由来すると言われていると説明しますと、ドイツ人の宣教師たち
はこういう話が大好きなので目を輝かせて喜びます。舟にノアの家族八人がみんな入った。
箱舟の入り口から家族が船に入り込むと、神が戸口を閉じられたのです。この漢字の説明は
みなさんも色々なところで耳にされたことがあるだろうと思います。では、「舟」というへ
んに「万」という字と、「口」を書くとどう読むかご存じでしょうか?
私が神学生の頃のことです。当時私は岡崎教会でインターンの奉仕をしながら神学校に
通っていました。当時、岡崎教会は開拓教会で、ドイツ人の宣教師ベルンス・ラインハート
先生が開拓していました。このベルンス先生が、ある時私のところに「船」という漢字の「八」の文字が「万」と変えられた手書きの漢字を持ってきて見せるのです。「この字が読めますか?」と。私は、「先生、こんな漢字はありませんよ?」と答えながら、内心は、「こまった外国人だなぁ」などと思っていました。すると、この宣教師は私に、「そんなことは知っ
ています」と言うのです。でも、「どうしてもこの漢字を印刷したい。コンピューターでこ
ういう漢字を作ることはできないか?」という相談だったのです。今から30年も前の話で
す。それで私が、「残念だけれども、そういう新しい漢字を作ることは、僕のコンピュータ
ーでは出来ません」と答えますと、とても残念そうな顔をするのです。
数か月後、私が通っていた東海聖書神学塾の機関紙である「塾報」の表紙にこの不思議な
漢字が載っていたのです。どうやら、このベルンス先生は、この塾報の巻頭言を頼まれて、
この漢字の話をしたかったのだとその時になって気がつきました。
「舟」というへんに「万」と「口」という漢字はありません。それは、神様はすべての人
をお救いにはならなかったからで、八人だけが救われたから「船」という漢字はこの漢字に
なったのだと、塾報の巻頭言には書かれていました。宣教師らしいメッセージです。「救わ
れる者は少ない。だから、献身して牧師や、宣教師になる人がもっと必要なのだ」とその巻
頭言の言葉は締めくくられていました。


このノアの洪水の物語は、一方から見れば神の裁きの物語です。実際に、ノアの家族以外
全てが死に絶えてしまったことが、今日の聖書には、様々な言葉で記されています。21節
「こうして、地の上を動き回るすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群がるすべて
のものも、またすべての人も死に絶えた。」
22節「いのちの息を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んだ。」

23節。「こうして、主は地の上の生けるものすべてを、人をはじめ、動物、這うもの、空
の鳥に至るまで消し去られた。それらは地から消し去られ」

ちょっとくどすぎるのではないか?と思えるほどに、何度も言葉を重ねて地の上に生き
る生き物がみな滅んだことをここで語っているのです。
このノアの箱舟の物語は動物がたくさん出てくる、子ども向きのかわいらしいお話では
実はないのです。ベルンス先生が言うように、何万という人が救われたという話ではないの
です。
このように確かに一方から見ればこの物語は神の裁きなのですが、もう一方の視点から
見ると、神の救いの物語であるとも言えます。この七章の最後に記されている23節の終わ
りの言葉がそのことを印象的に私たちに伝えています。23節の後半部分をお読みします。
「ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが残った。」
こう記されているように、この物語は神のみ前に生きた八人の者を救い出された物語で
もあるのです。
今日お読みした聖書個所は、箱舟の扉が閉められてから、箱舟を出るまでの期間に何が起
こったのかが記されている箇所です。今日の17節の冒頭では「大洪水は四十日間、地の上
にあった」
と記されていますし、24節では「水は百五十日間、地の上に増し続けた」とあ
ります。雨が降り続き、どういうわけかその水は約五ヶ月もの間、水が増え続けたのです。
さらに興味深いことが19、20節に記されています。「水は地の上にますますみなぎり、
天の下にある高い山々もすべておおわれた。
水は、その上さらに十五キュビト増し加わり、
山々はおおわれた。」とここでは記されています。一番高い山のさらに15キュビト水が増
し加わったのです。15キュビトというのは、ちょうど箱舟の高さが30キュビトと6章1
5節に書かれていましたので、船の高さのちょうど半分になります。ということは、箱舟が
山の頂に当たらないでぎりぎり浮かび上がるまで水が増えたということを物語っています。
誰も気にも留めないようなところにまでこだわって、聖書は厳密に描写しています。このよ
うな描写をすることを通して、神の救いが水の上に悠然と浮かんでいる姿をも表している
とも言えます。神の救いというのは、すべての世界が水の中に飲み込まれてしまったとして
も、その上に悠然と浮かぶ船のように確かなものだということです。水しかなくなってしま
った裁きの世界に、ただ一つ浮かぶ箱舟、これが、神の救いのシンボルとなったのです。
ノアたち家族が箱舟に入って百五十日たった時、つまり五ヶ月という期間が過ぎた時、よ
うやく水の増えるのがおさまります。そして、少しずつ水は減っていきます。そして、8章
4節にこう記されています。
「箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山地にとどまった。」
1月17日に降り始めた雨は、5カ月過ぎた時、150日経過してようやく雨や水がおだ
やかになりはじめます。

このアララテという山というのは、現在のトルコのあたりにあるのですけれども、どうも
大きいアララテ山と、小さいアララテ山があるようです。新改訳の第二版のチェーン式バイ
ブルをお持ちの方ですと、そこにこのアララテ山の高さが記してあります。高い方は、51
44メートル、小さい方でも3944メートルもあるようです。本当かなと思って調べてみ
ると、少し違うようで、実際には大きい方のアララテ山は5137メートルで、小さい方は
3896メートルのようです。どちらにしても、小さい方でも富士山が3776メートルで
すから、富士山より高い山ということになります。そんな高い山の上にまで洪水が押し寄せ
たということでも大変なことです。想像できるでしょうか?富士山よりも高く雨が増え続
けたというのです。そして、そんな高い山の頂に船が引っかかってしまったら、今度はどう
やって降りてきたらいいのだろうかと、更に不安になるのではないかと私なんかは想像す
るのですが、どうだったのでしょう。その上、水はそこから引いていって、地が渇くのには
更にあと半年も待たなければならないのです。
いずれにしても、これまでは水が増え続け、水の上を漂っていただけだったのが、船が山
の頂に引っかかって、止まった。これだけでも、ノアたちにとっては大きな変化であったわ
けです。ノアは水が引き始めたことを知り、希望を持ち続けることができたのです。
そこで、ノアがカラスやハトを船から何度も放って調べたということが続いて書かれて
いますけれども、これも、一言で言えば心配だからやったことでしょう。何かやらないと気
が落ち着かなかったからかもしれません。こうして神は、さらにノアたち家族に一つの慰め
を与えます。ノアが放ったハトが、オリーブの若枝をくわえて戻って来たのです。ハトがく
わえたオリーブの若枝というシンボルは、この時から、人々への希望のシンボルとなったの
です。神は見捨ててはおられないことの証しとなったのです。このオリーブを見たとき、ノ
アたち家族はどれほど慰められたことでしょう。
私たちは、ノアの大洪水のような試練を経験することはないかもしれません。けれども、
私たちなりに大きな困難を経験することはあるでしょう。病気になったり、仕事がうまくい
かなかったり、人との関係がこじれてしまったりというようなこともあるでしょう。
けれども、主は私たちの試練の時にも同じように、希望のオリーブの若枝を見せてくださ
るお方なのです。私たちはそのことを何でもないかのように思って気が付いていなくても、
神は私たちに、私たちを心に留めているという、しるしを送り続けてくださっているのです。
今朝はこの創世記に記されているノアの箱舟の出来事が新約聖書のペテロの手紙第一、
第3章20-22節にも記されています。ここにはこう記されています。
「かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わ
なかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救
われました。この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテス
マの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。
御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。」

この第一ペテロでは、ノアの時代、箱舟に入ったのはわずか八人の人であったことと、バ
プテスマのことが記されています。このノアの箱舟は水の中で救いを得たことのしるしで
あり、それはバプテスマ、つまり洗礼をうけることだとペテロはこの手紙の中で言っている
のです。バプテスマを受けるということは、この世界が滅ぼされる大洪水のただ中にあって、
箱舟の中に入れられているようなものなのだということです。
洗礼を受けるということは、神の救いを受けたことをあらわす大切なしるしです。ときど
き、洗礼を受けるということは、キリスト教の信者になることで、洗礼を受けてしまうと、
もう後戻りできない。何かとても窮屈な生き方を強いられることになるというような印象
を持っておられる方があるかもしれません。
考えていただきたいのですが、この水の上に浮かんでいた、箱舟は確かに、神の救いがど
れほど確かであるかということを表しています。大洪水の中を浮かぶ船というのは、まさに
悠然たる姿でしょう。けれども、実際にその箱舟の中ではどうだったのかというと、それほ
ど、悠然とはしていなかったのではないかと思うのです。箱舟の中にいたノアの家族八人は、
確かに大洪水から救われているのです。そういう実感は誰よりもあったと思うのです。けれ
ども、箱舟の中の生活と言うのはきっと大変だったと思うのです。自由奔放とはいかない生
活です。閉め切られた空間での息苦しさ、動物たちの世話という労働、いつ外にでることが
できるのだろうかという不安、いつも家族しか顔を合わせることができない退屈さ、あげれ
ばきりがないほど、限定された生活であったと思うのです。
このように、実際に洗礼を受けて、キリスト者として生活するというのは、思ってもみな
いような大変なことがある。困難なことから解放されるわけではないのかもしれません。け
れども、大変だから嫌だ、自分は自由に生きたいからなどと言って滅びの世界に出て行くこ
ともまたできません。ここに、キリスト者である私たちが問われていることがあるのです。
それは、「忍耐」です。嵐の船を降りるまで、本当の自由を掴み取るまで、主は私たちをこ
の試練から救い出してくださると信じ続けながら忍耐の中にとどまることです。この「忍耐」
というのは、別の言い方をすれば「信じて待つこと」と言ってもいいかもしれません。
この聖書は、そのような信仰の歩みを、さらに別な視点でも物語っています。それが、8
章の1節です。
「神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておら
れた。」

神は、箱舟の中にいる者を心に留めていてくださるのです。神は私たちに救いを与え、忍
耐を強いておいて、その後は私たちのことを忘れてしまって、放っておかれるようなお方で
はありません。この神が私たちのことを心に留めていてくださるという事実がここには記
されています。私たちが箱舟の中にいると思うようなとき、閉じ込められた世界に生きなければならないと思えるような試練の時、忍耐の時であったとしても、神は私たちの生活に目
を留めていてくださるのです。
けれども私たちは、厳しい生活を強いられる時、自分は神に忘れられてしまっているので
はないか、神は私に目をむけてくださっていないのではないかと不安になります。ノアは実
際にこの8章を見てみると、雨が降り始めてから、箱舟を出るまでの期間は、7章11節で
は「第二の月の十七日」と書かれています。そして雨がやみ、ノアたち家族が船の外に出ら
れたのは、8章14節では翌年の「第二の月の二七日には、地はすっかり乾いた」と記され
ています。これまで実に一年と十日にわたる長い期間を、ノアたち家族は箱舟の中で過ごさ
なければならなかったのです。それはノアの家族にとって、本当に厳しい時、忍耐の時であ
ったに違いありません。そして、実際に神が自分たちを心に留めてくださっていたかどうか
ということは、このあと8章15節で神が語りかけてくださる時まで分からないのです。
この間、ノアの家族に求められていたことは、ひたすらに信じて待つということ以外にな
かったのです。
「信じて待つ」。これこそが、信仰の歩みの基本であるということが、このノアの物語で、
よくおわかりいただけると思います。「神を信じるのであれば、その方を期待して待つ」、私
たちはそのことを、いつも学び続けていかなければなりません。飽きてしまってはならない
のです。いや、実際に、その生活は、本当は生き生きとした時間のはずなのです。その試み
の中にある時間をどうすごすのか、そのことが私たちには問われているのです。

私の好きな絵本にスェーデンの作家エルザ・ベスコフの『ペレのあたらしいふく』という
ものがあります。このペレは一匹の羊をもっていました。この羊はどんどん大きくなってい
きます。ペレも少しずつ大きくなっていきます。そのためにペレがいつも着ていた服も小さ
くなってしまいます。それで、自分の羊の毛を刈って、服を作ろうとするのです。毛を刈る
ところまでは自分でできます。けれども、その次の工程として毛をすく必要があります。そ
れでおばあちゃんにお願いして、羊の毛をすいてもらっている間に、おばあちゃんのお手伝
いとしてニンジン畑の草取りをするのです。その次に、ペレはおばあちゃんのところに行っ
てすいた毛を紡いでもらうのです。そこで紡いでもらう代わりに牛飼いの世話をします。こ
のように、ペレは次々にいろんな人のお手伝いをしながら、糸を染める染料を手に入れ、糸
を染め、その糸を布に織ってもらい、最後は仕立て屋さんに服を仕立ててもらうまで、実に
長い、時間をかけて服ができていく様が描き出されています。そうして、ようやくペレの綺
麗な青い新しい服ができあがるのです。
ペレは、最初から服がどのように仕上がるかを夢見ています。そして、そのためにコツコ
ツと自分のすべきことをするのです。信仰の歩みはこれに似ているのではないでしょうか。
そこで果たすべきことは、それは、実に苦しいことでも、嫌なことでも何でもなくて、それ
自体が、生活の楽しみであるかのように、絵本作家のベスコフは描きます。信仰の歩みも扉
が閉ざされたと思えるような中にあっても、実は、そこでコツコツと自分のつとめを果たす時に、その生活自体が喜びなのであって、しかも、その最後には期待したものを得ることが
できるという喜びもまた経験することになるのです。
こうして完成したペレ新しい服は、何のためかというが絵本の最後を見ますと分かるよ
うになっています。最後のページではまわりの人々もみな綺麗な服を着ていることに気が
つきます。この服は、実は礼拝に着て行く服なのだということが、最後の最後に分かるので
す。当時、ヨーロッパでは「日曜日の装い」と言いまして、日曜になると一番綺麗な服を着
て礼拝に出かけたのです。こういう習慣は今ではだんだんと失われていっているのは残念
なことだと思います。日常の厳しいと思えるような労働を、子どもが自分の服を手に入れる
ために、実に楽しく、実に豊かな時間として与えられていて、その喜びは神を礼拝するとこ
ろで初めて本当のものとなるのです。
「信じて待つ」、ここに信仰者の歩みの姿があります。一年と十日間、それは決して短い
期間ではありません。けれども、ノアたち家族にとって試みの期間であったはずのこの時間、
神がただ休んでおられたのはありません。この期間、神はこの世界を再創造される期間とし
てお用いになられるのです。この世界が停止しているかのように感じられる再創造の期間、
ノアはひたすら家族と向き合ったり、動物の世話をしたりと大きな変化を感じることのな
い時間を過ごしていたのかもしれません。けれども、その待つ時間こそがとても重要な時間
なのです。さきほどの物語のペレが、その待つ期間を楽しんで過ごしたように、ノアたちも、
期待をしながら新しい生活のための準備の期間として過ごすことができるのです。この「待
つ」という時間は、決してその時間は、退屈で閉じ込められた世界ではないのですから。
来週の30日から私たちは教会の暦で「待降節」「アドヴェント」を迎えます。この時か
ら教会の一年のスタートとなります。教会は、いつも待つことを覚えることからその一年の
歩みをスタートさせます。ここに、大切な信仰の真理が示されています。
神は、イスラエルの民に「信じて待つ」ことを教え続けてこられました。そして、それは、
今新約の時代に生きる私たちにも同様です。私たちは、旧約の時代と同様に信じて待つ者と
されています。主は、やがて再び来てくださるという希望が私たちには与えられているので
す。
この時、私たちの神は、私たちが新しく生きるために働き、新しい世界のための備えをし
ておられます。この間、私たちはこの時間を豊かな時間として用い、神を知り、自分を知る
時として用いたいのです。そして、神が与えてくださる希望のしるしを見つめながら、主に
ある望みに生きる者でありたいのです。

お祈りをいたします。

ペレのあたらしいふく

 メッセージの中で紹介されていた絵本です

   * 物ができあがる過程: 羊の毛がどのようにして一着の服になるのか、その手間ひまと人々の協力を通して、モノ作りの大切さが描かれています。
   * 助け合いと労働: 人と人がお互いに助け合い、幼いペレもしっかりと労働の対価を払ってものを手に入れるという、健全な社会のあり方が描かれています。
   * 美しい自然: エルサ・ベスコフによる、スウェーデンののどかな田園風景や人々の素朴な暮らしが、美しく、みずみずしい絵で描かれています。
この絵本は、100年以上前の作品ですが、今も世界中で読み継がれている名作です。