主日礼拝メッセージ「すべてを新しくする主に期待する一年」2026/01/11

聖書箇所:ヨハネの黙示録章21章5節
鴨下直樹牧師

 新しい年を迎えました。今年のローズンゲンによる年間聖句は、ヨハネの黙示録の21章5節のみことばです。
 5節全体を読んでみます。
 「すると、御座に座っておられる方が言われた。『見よ、わたしはすべてを新しくする。』また言われた。『書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。』」

 主は、語られます。「見よ、わたしはすべてを新しくする!」と。新年を迎えて、こうしてみなさんと共に礼拝をお捧げすることができることをとても嬉しく思います。
みなさんは、新しい年を迎えた時に、「今年の目標」とか「新年の抱負」といったようなものを考えられたでしょうか?


新しい年を迎えると、志を新たにして今年はこの目標を果たすぞと考える方も少なくないと思います。みなさんも、新年の抱負をきっと心の中に抱いておられることと思います。問題は、その新鮮な気持ちがいつまで持つかということなのかもしれません。どうでしょうか?もう今日で11日です。10日もすぐると、あの時の思いはもう過去のことということになってしまっていないでしょうか?はじめのうちの数日は新鮮な気持ちで働くことができるのかもしれませんが、一週間もたつと新年の志は残念ながら次第に薄れていってしまいます。そうすると、あとは特に大きな変化もなく、同じような日々が続いていくことになるのです。それが、私たちの生活というものなのかもしれません。

 今年の年間聖句は、聖書を読む人々にとって、希望を与えるみ言葉です。ヨハネの黙示録の21章は、この世界を神がやがてどうされるのかが約束されているところです。まず、21章の1節では「新しい天と新しい地」を見たと語られていて、2節ではこの新天新地が「神のみもとから、天から降ってくるのを見た」と記されています。
 この黙示録は絶望の時代に生きている人々に希望を知らせる手紙です。今目の前にある暗い現実の世界が永遠に続くのではない、やがて神が備えられた「新しい天と新しい地」があなた方に与えられるのだと約束しているのです。
 この約束に、私たちのすべての希望が込められています。続く3節と4節では、その新しい世界は、死も悲しみもない、慰めに満ちた世界だとも語っています。
 そして、今日の箇所の5節では、今度は神ご自身が「見よ、わたしはすべてを新しくする」と自ら宣言してくださっているのです。
 この幻を見ているのはヨハネですが、1節から4節までは、ヨハネが見たこと、聞いたことが語られていました。しかし、この5節では神ご自身がこれを語られているのです。だから、この知らせ、わたしはすべてを新しくするという知らせは間違いない知らせなのだという宣言です。

 では、この神が語られているメッセージの中身は、どういった内容なのでしょう。「すべてを新しくする」とはどういうことなのでしょう?
まずそこで考えたいのはこの「新しい」という言葉です。一般的に「新しい」という言葉は、ギリシャ語で「ネオス」という言葉を使います。これは、時間的な新しさを表す言葉です。英語の「ニュー」という言葉が、わかりやすいと思います。「新年」の「新」という言葉も、この「ネオス」という言葉です。
 ところが、この箇所の「新しい」という言葉は、この「ネオス」ではなくて、「カイノス」という言葉を使っています。これは、どういう「新しさ」なのかというと、「存在そのものが新しくなる」という意味の「新しい」という言葉です。別のものに変わるという意味で、本質的な新しさ、質的な新しさを表す言葉と言えます。存在そのものが新しく刷新されるという意味の言葉です。たとえば、主イエスを信じて新しく生まれ変わるという場合は、この「カイノス」という言葉を使います。自分の人生がイエスさまを知ってそれまでとは違う考え方ができるようになったというのも、この「新しさ」なわけです。ですから、このカイノスという言葉の新しさは、その人の存在が以前とは異なって、全く新しくなるという意味の言葉です。

 となると、その前の言葉である「すべて」は何を指しているのかとなるわけですが、文字通り「すべて」を神は新しくすることがおできになるお方だということです。「私たちの主は、すべてを新しくすることのできる神、主である」。このことを、今年一年間、心に刻もうというのが、この年間聖句が私たちに告げようとしていることです。それは、つまり、私たちのすべての生活の場面で、諦める必要はないのだという宣言でもあるのです。
 新年から数日過ぎて、新年に抱いた志が、しだいに風化していくことに慣れてしまっている私たちは、この年間聖句を耳にしても同じことが起こってしまいがちです。しかし、私たちの信じる神は、すべてを新しくすることがおできになるお方です。それは、時間を巻き戻して、前の状態にするという意味ではありません。よく、あの時の失敗をあの時点まで戻って巻き戻しできればよいのにと考えることがあります。しかし、私たちの主は、そういう意味で再生させようというのではないのです。
 私たちの主のなさり方は、今すでにあるものをまったく別物にするのです。たとえばこのヨハネの黙示録の21章1節に書かれている「新しい天と新しい地」という言葉が、そのことをよく表しています。この今ある天も、地も、この世界にあるあらゆるものを最後の審判の時になるとすべて滅ぼしてしまいます。けれども同時に、神の民のためにはまったく異なる新しい世界、新天新地をあなたがたのために用意しているというのです。それが、試練に耐え抜いたキリスト者に備えている神が与える希望なのだとこの聖書はここで私たちに語りかけているのです。この新しい世界では神は悲しみも、叫び声も、苦しみもない、これまでの世界とは全く異なる新しい世界を再創造しようとしておられるのです。ここに、救いがあります。ここに、私たちの希望があるのです。

 私たちの主は、すべてを、文字どおりすべてのものや事柄を、私たちが考えもしないようななさり方で新しく再創造することがおできになるお方です。これは、最後の新天新地ということだけでなくて、私たちの小さな日常の歩みにおいても、神は小さな日常であっても新しく作り直すことがおできになることができるお方だということです。
私たちは、この一年の間、そのような期待を持ってこのみ言葉を心に留めて歩むようにされているのです。

 さて、そこでどうしても私たちが考えてしまうのは神のしてくださる新しさを期待する時に、私たちはそれに対してどう待ち望めば良いのかということです。
 私たちはヨハネの黙示録がどういう文脈で語られた言葉であるかをよく知っています。ヨハネの黙示録は、まさに生まれたばかりの教会の時代、教会が大きな迫害を経験します。その中でアジアに生まれた7つの教会に迫害の中にあって希望を見失わないように、神の約束を語った預言の書です。ヨハネはこの手紙を通して、預言者たちが旧約聖書の時代に、イスラエルの民が希望を持ち続けることができるように神の約束を語ったように、ヨハネも、教会の人々に来るべき将来の神からの約束を告げ知らせたのです。
 そして、この手紙は厳しい現実の歩みの中で、神からの希望を見出す約束の手紙として教会に希望を与え続けてきたのです。
 この手紙には「裁きと救い」の両面が語られています。当然そこには、希望を見出すと同時に、悔い改めが語られています。神の福音は、必ず悔い改めと希望の両方が語られます。新しく変えられるためには、古いものは捨てられなければなりません。古いものを抱えたままで、神が備えられる新しいものを手にすることができないからです。それが、この「新しさ」「カイノス」の示すところでもあるのです。
 神が約束してくださるこの「カイノス」という「新しさ」は、この「悔い改め」によって、私たちが自分を変えていくことの先に与えられるものです。私たちは、悔い改めることによって、私たちは自分の人生を新しくすることができるのです。

 みなさんは有名なラインホールド・ニーバーの「冷静さを求める祈り」のことをどこかで耳にしたことがあるでしょう。この祈りはこういう内容の祈りです。

神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを
変えるべき事柄については変える勇気を
そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。
:1

 この祈りは、ニーバー小さな教会の礼拝で説教した時に祈られた祈りでした。それが、人々の目に留まり、はじめは兵士たちにカードとして配られ、また、断酒会の人々に紹介され、次第に人々の目にとまるようになっていったのだそうです。
 ニーバーという牧師はアメリカで1950年代から60年代に活躍した人です。この時代というのは、戦争が終わって社会が目まぐるしく発展した時代でした。そこから「ユートピア思考」という考え方が生まれるようになります。これからの時代はどんどん良くなっていくという考え方が支配するような時代だったのです。けれども、ニーバーは人間の善意というものだけで社会は良くならない。どうしてかというと自己中心性があるので、そのために正義が行えないのだということを主張していったのでした。
 多くの人々が安易に考えている世の中にあって、人々が期待する言葉ではないことを主張するのは、大変勇気のいったことでしょう。そんな中で、まさにニーバー自身、この祈りのように生きた人であったと言えるのです。

 変えられないことを受け入れる冷静さ、けれども、変えなければならない事柄については勇気を持って変えていく、声を上げていく、そういう知恵をニーバー自身神から与えられてきたのです。
 変えるべきは変える、ここに悔い改めが働く余地があります。神が私たちに備えてくださる新しさというのは、この悔い改めの先に与えられるものです。私たちは神の備えてくださる新しさを期待しています。そこでは、ただ待つのではなく、変えるべきものは変えるという悔い改めが求められる時があるかもしれません。
新年から「悔い改めの説教を聞くなんで厳しい」と感じる方があるかもしれません。けれども、「悔い改め」というのは、神の恵みです。私たちが変わることのできるチャンスに気づいたということだからです。

:1 出典Reinhold Niebuhr (Ed. by Ursula M. Niebuhr), “Justice and Mercy”, Harper & Row, Publisher, 1974.梶原寿訳、『義と憐れみ--祈りと説教』、新教出版社、1975年

私たちが何か自分の罪に気がついた時には悔い改めることもあるでしょう。時にはみ言葉に耳を傾けながら主に期待する、そんな時もあるでしょう。そのための助けとなればと願って、今年も年間聖句のカードを作りました。いつも、このカードの絵として使っているのはローズンゲンを発行しているドイツでは、今年のみ言葉のイメージのカードが何枚も作られていまして、そのデザインを自由に使うことができるようにされています。今年のカードは手のひらの中に、これから大きくなろうとしている植物の苗が描かれているものです。この苗はこれからどこかに植え替えられるのでしょう、新しい土地に植えられたこの苗がどのように成長していくのかという創造力を私たちに描かせてくれます。
 神が備えてくださる新しさは、私たちにどのようにもたらせるのでしょうか。確かに、黙示録を読んでいると、新しい天と新しい地は、それまでのものからある日突然、劇的に新しく変わるものです。けれども、この絵はまず一つ小さく始まる新しさがあることに気づかせてくれます。神は、私たちを変えてくださるお方です。それは、日毎の悔い改めからはじめられるものでしょう。はじめは小さな変化なのかもしれません。けれども、それはある時劇的な変化をもたらす前触れでもあるのです。
 ヨハネの黙示録を読んでいると、神の裁きは少しずつもたらされていくさまが描き出されています。神は、一度だけではない、二度も三度も、黙示録を読んでいると何度でも悔い改めの機会を与え続けられるお方であることが記されています。なぜ、そうされるのか。その時間を与えることで、神は最終的な裁きを遅らせておられるのです。なぜなら、神は人に何度もチャンスを与えられる神だからです。神は人を新しくしたいと願っておられるお方なのです。

私たちの主は、今年私たちにこう語りかけておられます。「見よ、わたしはすべてを新しくする」と。この言葉を主は私たちに今年の聖句として与えてくださいました。ここに、私たちは希望が与えられています。私たちの悔い改めの先に、神は新しい御業を備えておられるのです。
ぜひカードをどこかに飾って、時々見返してくださり、このみ言葉と向き合ってください。そして、主は新しいことをしてくださるお方であることを思い返していただきたいのです。場合によっては、小さな新しさのきっかけとして悔い改めに導かれることもあるでしょう。家庭で、職場で、地域の中で誰かと向き合う時に親切にすることが求められるかもしれません。あるいは、神様の前で自分が頑固になっている部分に気がつくこともあるかもしれません。その先に、神は新しい何かを備えてくださることを見つめていただきたいのです。
このお方を見上げつつ、この新しい年も主のみ言葉と共に、歩んでまいりましょう

お祈りをいたします。