聖書箇所:創世記3章1-24節
鴨下直樹牧師
「あなたはどこにいるのか?」 創世記3章1-24節 2025.03.23
今、教会の暦では受難節を迎えています。主イエスの十字架の苦しみを心に刻む季節を過ごしているのです。そんな中で今朝は、創世記の第3章に入ります。ここには人間の罪のことが記されています。
先週の礼拝でもお話ししましたけれども、神は人をそれぞれ向かい合う存在として創造してくださいました。神に創造された人間、男と女は、互いに助け手として足りない部分を補い合う存在として創られました。それは、まるで三位一体の神ご自身の姿に似ています。
ところが、創世記第3章の御言葉は、そのようなお互いが、互いに攻め合い、責任をなすり合うようになってしまったと書かれています。男と女のみならず、神との関係までもが破壊されてしまいます。
神が美しく、完全な世界に、闇が差し込んできているのです。ここに「蛇」が登場します。このところには「悪魔」ですとか、「サタン」というような私たちが耳慣れた言葉は出てきません。しかし、蛇というのはどうも昔から神秘的な力を持つと考えられたようです。日本でも多くの神社などに蛇を祀ったものがありますが、そのような考えは日本だけはありませんで、世界中、そしていつの時代でも見られます。この「蛇」というのは、物語の上での表現なのですけれども、それでも、この存在が神から人を引き離すものとして描かれています。「野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」と新改訳では訳されています。この「賢さ」という言葉は、ヘブル語で言うと「アルム」という言葉です。そして、この後でこの「アルム」、「賢さ」が問題になるのです。今はこれだけ説明しておいて、後でそのことにもう少し触れたいと思うのですけれども、蛇はその賢さを用いて、女に話しかけます。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(1節)。
この蛇の問いかけは、まさに賢い問いかけでした。こう聞くと、誰もが「神は何か意地悪なことをしておられる」という気持ちがしてくるからです。けれども、神は、2章16節においては「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と語られたのですから、まるで違います。ただ、この時の蛇のように問いかけられれば、誰でもどうしても神が禁止されたことが気になります。このように蛇は賢く、人の気持ち、感情を巧みに操っていくのです。そして、その蛇の言葉にまんまと乗せられてしまうのです。
女はそれに応えて言います。2節と3節です。
「私たちは園の木の実を食べて良いのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せられました。」
そうです。もうここですでに女は騙されてはじめているのです。神は「それに触れてもいけない」などとは言われませんでしたが、だめと禁止されると、人の心はそれを大げさにとらえてしまいます。そして、2章の17節において神は「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられたのにもかかわらず、女はここで「死ぬといけないからだ」と勝手に言葉を変えてしまったのです。こうして起こった人の過剰反応は自然と「神は本当に人に『やってはいけない』というような限界をもうけられたのだろうか?」という疑問を浮かび上がらせたのです。
こういうことは例をあげなくても、みなさん誰もが経験のあることだろうと思います。子どもの頃、「冷蔵庫にお菓子が入っているけど、あれは食べちゃ駄目だからね」と言って母親が出かけて行きます。その後、どうしても冷蔵庫の中身が気になる。すると、考えます。そうして食べてはだめなんだろう?後でどうせ食べるんだから、先に自分だけ食べてもいいのではないか?と考えてしまうのと同じ心の動きでしょう。
いずれにしても、こうして蛇は言葉巧みに、誘い込んだのです。誘惑というのはいつの場合でもそうですけれども、そこには何かしら人の心を惹きつける「提供物」というのがあります。蛇はここで人の心に疑問は生じさせた上で、その「提供物」を持ち出してきます。それが、次の言葉です。
「あなたは決して死にません。それを食べるその時、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(4-5)
蛇が人に示す「提供物」というのは「神のようになり、善悪を知るようになれる」ということでした。これは言い換えると、「何が人間にとって有益であり、何が害であるかについての知識」のことだと、ある聖書学者(ヴェスターマン)がいいました。神に信頼して歩んでいくとしても、自分で「何が善で何が悪であるか」、あるいは「何が得で何が損であるか」を自分で判断できる。それはまさに神のようになることです。けれども、蛇はその時に、その代りに、何も失うものないかのように話したのです。「死ぬ」と言われた神の意図が何かを蛇は明かしませんでした。しかも、賢いことに、この蛇は嘘を一度もついていないのです。この時に蛇が言った「あなたは決して死にません」という言葉があります。この言葉もある意味では嘘ではないのです。事実、この後で、女と男が善悪の木の実を食べてしまった後、この二人は肉体的には死んではいないのです。
そうすると、ではここで神が嘘を言っておられるのか、などと考えてしまうかもしれませんけれども、そうではありません。それは、神がどう意味で「あなたは死ぬ」と言われたのか。その本当に意味を知る必要があります。ここで神が「死ぬ」と言っておられるのはどういう意味においてなのでしょうか。前回の説教でも少しお話ししたかもしれませんが、改めて「死ぬ」の意味について考えてみたいと思います。
「死ぬ」という言葉を聞くと、私たちは自分たちの心臓の鼓動が止まることだと考えます。それはもちろん死です。けれども、神はここでそれと異なる意味で「死ぬ」ということを語っているのです。つかり、神との関係において死んでしまうということです。そして、このことは「なんだそんなことか」と済ませることはできないほど大切なことなのです。この神との関係における死は、心臓が止まってしまうことよりも恐ろしいことなのです。
最初にお話ししましたように、人間は三位一体の神のように、神と隣人とが交わり合うように、支え合うように造られました。けれども、その人間が神と向かい合うことを拒む、そして、その結果として隣人とも向かい合うことも拒んでしまう。そうやって、一人勝手に生きられるようは、神は人をお造りにならなかったのです。ですから、このようになってしまった人間は、もう誰の手も借りなくても一人で生きていけると考えてしまう人間は、もう神との関係において完全に切れてしまっているわけです。つまり、死んでしまっているのです。死んでしまっているということは、もうその時点で神から裁かれてしまっている、捨てられてしまっているということです。そして、そのような人が生きているということは、もはやただ心臓が動いているだけにすぎないのです。だから聖書は言うのです。「すべての人は罪を犯して、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3章23節)と。心臓は動いて生きているようだけれども、その人は神の目から見れば死んでしまっている。そうであるなら、人はせっかく神から与えられた神の息吹による、まことのいのちを生きてはいないことになってしまうのです。
では、この罪の出来事がどのようにして起こったのか、私たちはよく知っておくためにも、この箇所に目を止めたいと思います。それは、この蛇の語りかけの後、すぐに、ここで女と男によって引き起こされてしまうのです。6節をお読みします。
「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、また賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女は実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」
こうして、二人はこの蛇の言葉に惑わされ、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。実に簡単にそれは起こったのだと書かれています。しかし、造り主であられる神は、男と女を互いの助け手として創造されたはずです。欠けを補うのが男と女の使命であったはずです。この時男は一体何をしていたというのでしょう。ここには、「ともにいた夫」と書かれているのです。どこかに行っていたわけではなかったのです。けれども、妻の行動に関して夫は一切黙ったままなのです。あまりにも無関心です。ある日本の聖書学者はそれでこういったほどです。「エデンの園の悲劇は妻が蛇に欺かれたことではなく、その場に立ち会った夫のこの無感動、無行動から生まれた」と。これは決して女を弁護しての意見ではありません。それは残念ながら、男のこの後の言い訳の言葉からも明らかとなっていくのです。
善悪の知識の木の実を食べた結果、確かに二人は、蛇が語ったような知識を得ました。神のように自分で考え自分で決断し、神から支配されないで生きることができるようになりました。そして、賢さを得た結果、二人は裸であることに気がついたのです。最初に「賢い」という言葉が、「アルム」という言葉であると言いました。けれどもここで、賢さを求めた人間は「裸」であると知るようになります。この「裸」という言葉はヘブル語で「エロム」という言葉です。アルムを求めた者が、エロムになってしまったと、ここで似ている言葉を用いて、その滑稽さを描き出しているのです。
この「裸である」ということは、どういうことかと言いますと、すべてがさらされているということです。神に全てを見られておられ、周りからも見られていることを知ったのです。こうして、人間は賢さを得た結果どうなったかというと、神を見上げる存在であったはずの人間が、自分を見つめる存在になってしまったのでした。裸であることを知った二人は、恥ずかしいという思いを知ることになったのです。アルム「賢さ」を求めて、エロム「裸」になってしまったのです。
神のようになりたい。人はそう願ったはずでした。知識が欲しい、神のように判断できるようになりたいと。ところが、その結果は、自分は誤った存在となってしまったことを知り、自分のありのままの姿を隠さなければならなくなってしまったのです。これが、人間の悲惨の始まりとなったのでした。これが、神を見上げなくなった罪の結果として得た蛇からの「提供物」だったのです。
こうして裸の存在、自分を恥じる存在となってしまった人間に、神は二つの言葉をもって問いかけます。一つ目の問いはこうです。9節です。「あなたはどこにいるのか。」です。神と人は互いに向き合う存在でした。ところが、人間が神から離れた時から、神が私たちを探さなければならなくなったというのです。なぜなら、人間が隠れるからです。自分の存在を恥と思うようになってしまったからです。けれども、この問いかけの中には、神から自らの意思で離れてしまった人間に対する神の優しさがあります。それは断罪する言葉ではないのです。「あなたはどこにいるのか」と問いかけて、自分が何者であるのかに気づかせようとする神の招きの言葉です。
詩篇27篇の5節と6節にこうあります。
「それは、主が、苦しみの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。今、私の頭は、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で喜びのいけにえをささげ、歌に歌い、ほめ歌を歌おう。」
ここには「主は私たちをかくまってくださる方」という信仰がダビデによって告白されています。私たちは隠れずとも、神が私たちを敵から隠して下さるのだというのです。私たちがそのことを知っているなら、どれほど幸いなことでしょう。主は私たちを裸にされるお方ではなく、かえって私たちをかくまってくださる。これが、主の招きなのです。
けれどもこのような主のことを知らなければ、人は自分で自分の恥を隠そう、取り繕おうと考えてしまいます。
「あなたはどこにいるのか?」この神からの問いに、男は答えます。10節です。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています」と。 すると、そこで神からの第二の問いが語られます。11節です。
「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか」。
この問いかけは、その裸になった責任は誰にあるのかというものです。つまり、神はここで、そうなったのは、自らが選んだのではなかったのか?と問うておられるのです。けれども、ここで夫は妻をかばうどころか、それを裏切ってしまいます。この妻に原因があるとし、いや、つきつめれば神に原因があるのではないかと神にその問いを突き返してしまうのです。それが12節です。
人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
まるで自分には何の責任もないと言わんばかりです。しかもここで、妻のことを「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と、まるで自分そのものであるとまで褒め称えた妻のことを、「この女」とさえ呼んでいるのです。もちろん、これは新改訳の訳し方で、他の訳はここまで感情的な翻訳ではありません。けれども、間違いなくここで人は、女と、神に責任を転嫁してしまっています。こうして、人間はせっかく得たはずの「知恵」を、「賢さ」を、自分を守るためにさっそく使い始めるのです。
E・シュヴァイツァーという聖書学者がここでこんなことを言っています。「この出来事の恐ろしさは、人間がどのように神から離れ罪に陥ったかということについて気づいていない」と。この言葉はすべての誘惑の原則を端的に言い当てています。神のようになれる。人間はそう信じて、善悪の知識の木の実に手を伸ばしました。はじめは、神から積極的に離れようなどとは思っていなかったはずです。最初にあった思いは、それこそ新しいことへの期待だったはずです。私たちはそのことをよく心にとめておく必要があります。誘惑というのは、いつも、初めはほんの小さな好奇心からです。けれども最初の僅かなズレは、突き進んでいくと、大変大きく逸れてしまい、道を踏み外すことになるのです。そして、そのことに初めはなかなか気がつかないのです。
けれども大切なことは、実は過ちを犯したと気がついたときにどうするかです。その時、神の御前に罪を認める勇気が必要なのです。そして、大胆に悔い改めることです。神は決して裁き主として、私たちの前に立ちたいと思っておられるのではなく、私たちを正しく実に導きたいと願っていてくださるお方なのですから。
しかし、残念ながら男も、女もこの神から問われた時、自らの罪を認めませんでした。それゆえに、神はここから裁きをお語りになります。ここで神が裁かれるのが、まず蛇に対してです。もうあまり時間がありませんので、丁寧には話すことはできませんけれども、ここで蛇に神は「呪い」を宣言なさいます。この「呪い」という言葉ですが、これがまた「アルル」という言葉です。エビの持っていた「賢さ」を表す「アルム」が、今度は「アルル」、「呪い」の存在となってしまったのだというのです。この創世記というのは、実にこのような表現が巧みです。
この世界には実に様々な知恵や知識があります。賢さがあります。けれども、その知識が、人を神へと近づけるものではないから、それは「呪い」となる。そうこの物語は宣言しているのです。
そして、続いて妻に対して宣告されます。ここで語られるのが、「産みの苦しみ」と「夫による支配」です。ここで「苦しんで子を産む」と16節にあります。ここで語られる「苦しみ」は、その後、夫、ここで初めて名前がアダムとでてきますけれども、アダムには労働の苦しみを与えられます。これは男にも女も、それぞれに与えられている務めに「苦しみ」が伴う、あるいは「労苦」がともなうこととなったと聖書は語るのです。
女に語られたもうひとの言葉である「夫からの支配」ですけれども、この「支配」という言葉は、私たちがイメージする言葉とは意味がずいぶん異なるようです。この「彼は、あなたを支配するようになる」という言葉によって、これまで、ずいぶんと女性を束縛する言葉としてとらえられてきたようですけれども、この「支配する」という言葉は「治める」とも訳すことのできる言葉で、創世記に何度も出てくる言葉です。たとえば、1章18節では「昼と夜を治めさせ」とされている言葉です。あるいは「罪を治める」という言葉でこの後の4章7節ででてきますし、ヨセフはエジプトを治めと、創世記の最後の方にでてもきます。この「支配する」とか「治める」と訳される言葉は、所有や支配の関係というよりも、保全や保護の行為を表す言葉です。つまり、夫が妻を自分のいうことを聞かせるようになるという意味ではなくて、夫の責任で妻を保護するということであったのです。ですから、これは男が女を束縛するというような悪い意味に完全にとる必要はありません。けれども、それにしても、本来夫婦は、互いの助け手とされていたのに、夫に保護される、守ってもらう存在となってしまったということがここで言われているのです。それがやがて夫への依存的になり、それが、やがて支配されるようになってしまったのは、この神とお互いの関係を失ってしまったからに他なりません。
そうして、いよいよ神の宣告はアダムへと向かいます。けれどもこの神の呪いの言葉は、アダムの首をかすめて、土地へ向かいます。17節です。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる」
お気づきになれたでしょうか?ここで語られている神からの呪いは蛇と土地に向けられているのですが、結局のところ、神の呪いの言葉は、男と女には向けられてはいないのです。
これは、この時に人間に課せられた、「労働」や「出産」ということが、呪いではないということです。というのは、これまで特に「労働」というのは、呪いであると理解されることがあったのです。けれども、そういうことではないのです。神は初めから人間にこの世界を治めるという役割をお与えになりました。これは労働です。神はこの世界を正しく治める、管理することを初めから求められたのです。けれども、これまでは神に託された労働を人は喜んですることができたわけです。しかし、そのような労働に「糧を得るための労苦」が付加されたのです。そして、男と女はエデンの園を追い出されてしまい、外の世界、つまり神の支配の中から出て、その地で労働をし、糧を得るために働くようにと仰せられたのでした。
そして、人は園を追われたその時に、初めて気がつくことになるのです。この神と人が互いに向かいあって喜んで生きることができたエデンの園は、まさにパラダイスであったと。楽園であった。天国のようであったと。
こうして楽園から人間が追放された時、神は言われます。22節です。
「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」
ここでようやくもう一つの木である「いのちの木」の役割が明らかとなります。それは人が永遠に生きるための木であったと。そして、この私たちが再び食べることのできなくなったこのいのちの木を、私たちは再び、聖書の最後の章であるヨハネの黙示録22章で見ることができるのです。そこには、「新しいエルサレム」のことが記されています。神が支配しておられる国、神の御国の世界が描かれているのです。そして、そこに、このいのちの木が置かれ、そこから取って食べることができるようのです。その時、いのちの主であるイエス・キリストは、私たちがあの時失ってしまったまことのいのちを与えてくださるのです。聖書のはじめに書かれていることが、聖書の真ん中である新約聖書で、どうしたらこの命を得ることができるかが書かれ、そして、聖書の最後では、このいのちの木を食べることができる、新しいエルサレム、つまり、パラダイスを示しているのです。
聖書は本当に不思議な書物です。最初の出来事から最後まで神はずっと一筋の道を示し続けています。それは、人が永遠に安心して生きることのできる世界を神が備えておられるというメッセージです。そして、この永遠に神と共に平安に過ごすことのできる神と共なる御国へと、人々を招き続けているのです。
この世界を創造された神は、はじめからその完成までを責任をもって見届けてくださるお方です。主は、私たちに今も問いかけ続けておられます。
「あなたはどこにいるのか?」と。
神は私たちに常に心を向け続けていてくださるお方なのです。この主と共に生きること、これこそが、私たちに備えられた確かな道なのです。
お祈りをいたしましょう。