主日礼拝メッセージ 使徒信条の信仰16「復活と永遠のいのち」2026/02/08

聖書箇所:ヨハネの福音書 11章25節
鴨下直樹牧師

 

 今日は使徒信条の最後の告白、「からだのよみがえりとこしえのいのちを信ず」という部分から、この信仰告白が伝えるところをご一緒に考えてみたいと思います。

 芥見教会の近くに、中部学院大学というミッション系の大学があります。もう今から15年ほど前にことですけれども、当時、この中部学院の宗教総主事であった笠井恵二という先生が勤めておられたことがあります。この先生は何冊も本を出しておられた方で、私も何冊か読んだことがあります。この大学では、近隣の牧師を招いて「牧師招待会」という会を毎年開いておりまして、その時に神学者の笠井恵二先生が「日本の宗教性」という発題をいたしました。この発題がとても興味深い内容でしたので、少し紹介したいと思います。この笠井先生という方は、スイスのバーゼルで学んだ方で、他宗教とのことに問題意識を持っておられる方で、日本の宗教性ということに関心を持っておられる方です。
 その牧師招待会の講演で笠井先生がこんな話しをしておられました。笠井先生の教え子に、神道の神主になった方が何人かいらっしゃるそうです。そこである時こんな質問をしたのだそうです。「神道では人が死ぬとどうなるのか?」と。神主になった元生徒はこう答えました。「それは、人は死んだら神になって家族を見守る。そして、誰も自分のことを知っている者がいなくなるとさらに上の神、つまり祖霊になる」というのです。これが、日本の宗教性のベースにあるということなのです。


 そこで、この先生は続けてこんな話をなさいました。「そうすると、日本人というのは、すべてが神様予備軍ということなる。お互いが神様予備軍なので、相手のことを尊重しなければならない。それで、他の人が何をするか、みんなはどうするか、というようなことにいつも関心を持つことになる。だから、みんながすることは、自分もする。これは、たとえばバレンタイなどもそうで、もうすぐバレンタインが来るわけですが、宗教観が異なっていても、みんながするならばする。キリスト教で結婚式をするのも、クリスマスを意味も分からずお祝いするのも、みなここに理由がある。これが、日本の宗教性の根元にあるものだ」とそう説明してくださったのです。少し乱暴な説明なのかもしれませんが、そのように見ることができるという講演でした。
 これはどういうことかというと、日本人の根本にあるのは、みんないずれは神様になるんだから、どの宗教であってもみんなが認めるものは大切にしたら良いということになるわけで、この考え方は、「日本教」とも呼べる宗教観なのだと、その講演で笠井先生は話しておられました。


 神道の考え方には「人は死ねばやがてみな神になる」という考え方があるとわけです。これはたとえば仏教でも取り入れられた考えです。このような考え方は本来の仏教の教えではないようですけれども、日本のこの考え方にうまく土着化させた日本独自の仏教というのが、こういうところから生まれてきたのです。この「日本教」というのは、少し極端な表現ですけれども、日本の人たちの宗教にかんする関心の広さをこういう言葉で表現したわけです。
 人は死んだから神になる。このような考え方は確かにあるのだと思います。しかし、聖書はそうは語りません。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とヘブル人への手紙 第9章27節には書かれています。聖書は死んで終わりではないと語っています。


 少し前のことですが教会のある方から一枚のCDを頂いたことがあります。ブラームスの『ドイツ・レクイエム』です。このCDをくださった方は当時、日本の合唱団の指揮をしておられた方で、日本から合唱団の方々をドイツに連れて行ってこのレクイエムを歌うのだと話してくださいました。それで、どんな曲かを私に説明するために聞いてもらった方が早いということでこのCDを下さったわけです。それで、何度もこのCDを聞きました。「レクイエム」というのは、「鎮魂歌」などと日本語では訳されます。けれども魂を静めるなどというのは、いかにも日本人向きの翻訳と言わなければなりません。レクイエムというのは、死者のためのミサの際に用いられ、本来はラテン語の祈祷文からつくられます。それまでの「レクイエム」というのは、人は死を迎えるとやがて神の裁きを受けることになります。この神の裁きの時に人の魂がどこに行くのかということに恐れを覚えていました。それで、レクイエムを通して裁きが和らぐこと求めていたわけです。
 ところがブラームスは、これまでのような神の怒りの前に立つ時に、裁きを強調するレクイエムではなくて、神の言葉によって慰めを受ける音楽にしようとしたのです。そこでブラームスはルターの聖書から自分で聖書箇所を選んで作曲しました。
 私は音楽の専門ではありませんので詳しくはないので、知っている人に教えていただきたいくらいですが、このレクイエムは、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」というマタイの山上の説教の言葉から始まり、中盤でも「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつも、あなたをほめたたえています」と詩篇84篇4節を用いて歌われます。そして、最後にはヨハネ黙示録14章13節の「『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。御霊も言われる。『しかり。その人たちは。その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。』」というみ言葉が用いられています。聖書の言葉から慰めの言葉をたくさん選び出していることがよくわかります。
 このCDを下さった方が私にこの曲を紹介してくださった時に、この曲のキーワードはドイツ語で「Selig」、日本語だと「幸いな者よ」という言葉にあると教えてくださいました。主と共に生き、主にあって死ぬ者は幸いである。これがこのレクイエムの中に流れている中心のテーマのようです。
 この『ドイツ・レクイエム』は、主を知って生きる者は、死を迎えた時も確信を持ってその後のいのちを平安に生きることのできる幸せを語っています。それは、生きている間、常に自分に自信がなく、いつも人の顔色をみながら、みんながやっていることだから大丈夫だというところから来る安心感とは、まったく異なる次元から来る幸いだということができるでしょう。
 キリスト者として生きる。それは、その生きている間も、死ぬ時も、幸いに支配されて生きることのできる喜びです。回りなど見なくても、確かな確信とともにある幸いです。


 今日は使徒信条の学びの最後になります。今日で16回目になります。その最後信仰告白の言葉はこうです。「からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」
 使徒信条の告白は、最後に復活の希望を告白します。それは、からだがよみがえることと、永遠の命の告白です。ここに、教会の信仰は将来に向かっていることが分かります。私たちの信仰は、過去、そして、現在のためのものだけではなく、将来において完成されるものなのです。
 この信仰告白は、原文では「このからだのよみがえり」という言葉で告白されています。「このからだ」です。「このからだのよみがえり」という信仰告白で私がすくに思い出すのは、私たちのために宣教に来てくださったドイツ人の宣教師たちのことです。特に、私の神学校の先生でもあるエミー・ミュラー先生は、日本に来た時の葬儀の仕方、特に火葬するという習慣を見て、絶対に日本では死ねないと思ったと話してくださったことがありました。
 日本でも昔はそうでしたし、少し前までは美濃の方でも土葬だったそうですが、一般的には火葬にします。これはヨーロッパではない習慣です。ドイツでは亡くなった方のからだは棺に入れて、そのまま土葬するのが普通です。これは、この使徒信条の告白でも「このからだのよみがえり」を信じているためです。「からだが焼かれてしまうと、天国に行った時にからだがないではないかと、当時は真剣に悩んだ」と、ミュラー先生は私に話してくださったことがあるのです。これは、ドイツの宣教師にとっては本当に、真剣な悩みだったに違いないのです。

 私たちは、このからだ、肉体をもってよみがえる、と使徒信条は告白しています。私たちの霊や魂というものだけが天にいくのではなく、からだを持ってよみがえる、それがこの信仰告白です。
 使徒信条がこのことを告白するようになったのには、明らかに意図があります。というのは、この信仰告白は、恐らく少しあとになってこの言葉が付け加えられるようになったのです。それは、当時の世の中に「霊魂不滅」という考えが広がっていったためです。
 これは教会の中だけでなく、一般的にそのような考えが広まったようですけれども、このからだはやがて滅んでいくけれども、その肉体に住んでいる魂は不滅だと考えたのです。プラトンの考え方が、強い影響を及ぼしたのです。「霊肉二元論」という言葉があります。霊と呼ばれる精神と肉体とを人間は持っていて、精神は尊いものだが、この精神が肉体と言う牢屋に閉じ込められている。これが死と同時に、それまで精神を支配していた肉体から解放されて精神は浄化される。霊だけは天に帰ると考えるようになっていきます。これは、聖書の世界観にはない考え方で、旧約聖書にはほとんど出て来ません。ところが、この霊肉二元論は、当時世界を支配していたギリシャ・ローマの中にどんどん浸透してきます。そして、教会が主イエスの復活を証し、また、私たちもやがてよみがえると教えると、当時の人々はこの考え方が理解できませんでした。それで、「ああ、魂が死後によみがえるのね?」と受け止められて行って、いつのまにか、それが当たり前の理解になってしまっていきます。
 これは、先ほどの神道の考え方にも見られますし、レクイエムもこのような考え方が前提となっていました。こういう考え方は、ギリシャだけではなく、世界中に広まっていきました。ですから、私たちも自然とそのような考え方を誰から教えられるわけでもないのに、そのように考えてしまうところがあるわけです。
 この「人は霊と肉とに分けられる」という考え方は、私たちの生活のあらゆる面で姿を表します。たとえば、人間は年をとっていくと、からだのいたるところが衰えて行きます。からだそのものが重荷であるかのように感じてしまう。そうしてからだを持て余してしまうのです。あるいは、若いときは、若い時でその肉体の欲望というものに抗うことができないで、苦しむということもありかもしれません。それで、宗教と言うのは、どうしたらこの肉体の支配から解放されて自由になるか、より高い精神の世界に入ることができるようになると教えるようになっていったのです。それで、欲を断つとか、善行に励むということを大切なこととして教えるのです。
 けれども、私たちが信じている信仰はそうではありません。「このからだも、霊も、魂も神が造られたもので、それはバラバラに分けることができないものだ」と信じているのです。だからここで「私たちはこのからだをもってよみがえる」と告白しているのです。

 今日の聖書の箇所にはこうあります。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きる」と。
 私たちは、主イエスを信じた時に、私のいのちは、もはやこの死に支配されることはなくなったのです。死んだら魂だけが救われるなどということでもありません。死にも支配されていないのですから、神のみ前に、永遠に生きる者とされるのです。それが「このからだのよみがえり」に続いて告白されている「永遠の命を信じる」という信仰なのです。

 しかし、そうすると、「このからだ」というのは天の御国に行った時には一体どんなからだをもつことになるのかということが気になるようになります。一体天国では何歳のからだなのか、腰がまがったままなのか、天国でも新聞を読むのに老眼鏡が必要なのか。自分の抱えている病はどうなるのか。そういったことがとても気になるようになるのです。「このからだ」が永遠に生きるためのからだとなるのであれば、それは私たちにとって真剣な問です。今のからだは葬儀の時には火葬してしまうわけで、その意味でもこのからだを失ってしまうことになるとすれば尚のこと、いったいどんなからだを持って生きることになるのは、どうしても問わずには居られません。


 もう一か所聖書を読みたいと思いますがそれはコリント人への手紙第一15章35節から49節までです。
「しかし、『死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか』と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。」
 少し長い箇所をお読みしました。今日は49節で切ったのですが、本当は58節まで読んだ方が、意味はもっとはっきりすると思います。
ここでパウロは復活の肉体はどうなのかという問いに答えています。49節にこうありました。「私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです」
ここでは地の人として土で造られたアダムのことが挙げられ、天から来られた方として主イエス・キリストのことが語られています。つまり、天においては、私たち主イエスのようなからだを持つことになるということです。それが、私たちに約束されているからだのよみがえりであり、永遠の命の姿なのです。
 ヨハネの手紙第一3章2節ではこうも語っています。
「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」
 私たちはやがてキリストのようになる。これこそが聖書が私たちに語る希望の姿です。ここに私たちの人生は集約されるのです。私たちはキリストによって救われ、そして私自身をキリストに預けてしまう。任せてしまう。「私が生きているのではない。キリストが私の内で生きておられる」と生きるようにされていく。そして、ついにはキリストのように変えていただくことができるのです。主イエスが神を愛し、人をも本当の優しい愛で愛されたように、私たちもやがて神をも人をも愛することができる人へと変えられるのです。それが、私たちの最後の姿なのです。これが私なのか。このからだが私なのか。私は、もはやこのように考えることができるようにされたのか。そんな喜びを私たちは経験することが約束されているのです。これこそが私たちの望みなのです。


 皆さんもよくご存じの、詩人であり、画家でもある星野富弘という方がおられます。昔は体操の先生をしていたのですけれども、体育の授業の時に、生徒たちの前で模範演技をみせようとしたところ、手がすべって鉄棒から落ちてしまいます。その時に背中から落ちたために、脊髄が傷ついてしまい、からだが動かなくなってしまいました。そして動かせるのは顔の部分だけとなってしまうのです。そんな中で、星野富弘さんはイエス様と出会い信仰をもつようになります。初めは病気から癒やされることを祈ったことでしょう。けれども癒やされませんでした。しかし、動かすことのできる口で絵を描き、詩をつづることができました。そして、それから絵を描き、詩をつづる日々となりました。 この星野富弘さんの詩にこんなものがあります。ツルバラの絵と共に「当てはずれ」という題がつけられている詩があるので紹介したいと思います。

あなたは 私が 考えていたような方ではなかった
あなたは私が想っていたほうからは来なかった
私が願ったようにはしてくれなかった
しかし あなたは 私が望んだ何倍ものことをして下さった


 見事な信仰告白の詩です。自分の願いがかなわなくとも、神が与えてくださった喜びに生きている。そんなことを誰もが分かる詩です。
 「わたしたちは、私たちが知っている以上に救われている」という言葉がありますけれども、そんな言葉を連想させてくれる詩です。


他にも星野富弘さんのこんな詩があります。「命一式」と言う題の詩です。

新しい命一式ありがとうございます。
大切に使わせて頂いておりますが 大切なあまり仕舞いこんでしまうこともあり
申し訳なく思っております


いつもあなたが 見ていて下さるのですし
使いこめば良い味も出て来ることでしょうから
安心して思い切り
使って生きたいと思っております

 実にユーモアのある詩です。からだが悪いことを嘆いている姿を感じさせない詩です。
喜んでいるのです。幸いの中に生きているのです。自分が神に与えられた幸いを、神に精一杯応えていこうという決意の詩です。
 神が私たちに与えて下さる救いは、本当に喜びの中で生きることができるようにしてくださるものです。病も、自分が支配することのできないからだも、その心も神は根こそぎ救って下るのです。そればかりでなく、私たちの将来まで完全に備えてくださる。これが救いです。これが神の与える幸いです。
 それは、周りの人と見比べながら与えられる安心などではない。神の前に自立した者と生きることのできる幸いです。私たちはそのような信仰を与えられているのです。そして、与えられるのです。 私たちがこの信仰を告白する時、それはただ、本当にすべては神の恵み、私はただそれを信じることができるのみです。


 かつて、改革者ルターが言いました。
「神はすべてであり、私は無です。」
何も持たないような私たちを、神がその持てるすべてをもって恵んでくださる。これが、私たちの救いです。この救いの中に生きるなら、私たちは神の喜びに満たされるのです。この喜びの信仰告白を、私たちはいつも繰り返し告白しているのです。
「わたしは 信じる」
「わたしは 神を信じる」
「わたしは キリストを信じる」
「わたしは 聖霊を、そして教会を信じる」
「あなたは わたしの すべてです」
そう、わたしたちは、いつまでも、思い返すたびに、神に告白し続けようではありませんか。

お祈りいたします。