主日礼拝メッセージ ノアの箱舟1「神との契約」2025/09/14

聖書箇所:創世記6章1-22節
鴨下直樹牧師

創世記6章1-22節 「ノアの箱舟1 神との契約」 2025.09.14

 この朝の説教の題を「ノアの箱舟1 神との契約」としました。今日は1ということですから、続きがあるということです。ノアの箱舟の話は、9章まで続いていますので、4回に分けてお話しすることになります。説教のタイトルとしてはあまり綺麗な題とはいえません。

以前、後藤喜良先生がヨブ記から4年にわたって説教をした時には、「ヨブの信仰その170」という題だったそうですので、それを思えば4回くらいまではまだ可愛いかなと思うところもあります。いつも、小林先生が、私のいない時に説教をしてくださっています。小林先生は、いつも礼拝の細目を作る時に、綺麗なタイトルをつけるなと感心しています。本当は、小林先生のような魅力的な説教題をと思うのですが、予定表を作る時に、説教がまだ完成していない状態で説教題をひと月分まとめてつけるので、私にはここまでが限界かなとも思っています。とまぁ、冒頭から言い訳じみた話からはじめて申し訳ありません。

 そういうわけで、このノア箱舟の物語を四回に分けて説教しようと決めたわけですけれども、これには随分と悩みました。もちろん、もっと細かく丁寧に御言葉を解き明かすことができるとお思います。特に、今日の個所は1節から8節で一度話が切れています。切れているというよりも、内容が大きく変わるのです。ですから、従来の分け方でいえば、ここは二度に分けて語るのが相応しいと思いますけれども、今日はこの1節から8節と9節以下とを一緒に読み進めて行きたいと思っています。

 今、この6章の1-8節は、続く9節からとは内容が大きく異なると言いました。最近ではこの創世記は、4つの異なる資料から今の形に編集されているとほとんどの学者たちは考えています。異なる資料というと、どういうことかと感じるかもしれませんが、たとえば祭司たちは、自分たちの祭儀に関しての特別な伝承を持っています。そういう、四つの伝承があって、それらの4つの異なる伝承が一つにまとめられているのではないかと、最近の聖書学者たちは考えているわけです。そして、この箇所は、聖書学者たちが言うには、それぞれ資料が異なるというのです。ただ、伝承が異なるからといって、それぞれを分けていっても、文章が細切れになるだけのことで、大切なことは今はこうして一つの文章としてまとめられているわけですから、基本的には細かなことは気にしないでお話ししていきたいと考えています。また、この1節から8節は、9節以降と内容がかなり異なります。けれども良く読んでみますと、この最初の部分というのはノアの箱舟の物語の序章といいますか、そのための導入のような役割を果たしています。そういうこともあって、今日は、細かく分けないで6章全体から一緒に御言葉を聞いていこうと思っているのです。

 さて、それでこの冒頭の部分に書かれていることはどういうかと言いますと、簡単にまとめると「人間の罪はますます増大した」ということです。1-4節のところに、二つの不思議なことがいくつか書かれています。

 その一つは、「神の子らが、人の娘を妻とした」ということです。もう一つは「ネフィリム」と呼ばれていた巨人がいたということです。

この箇所は、創世記の中でもさまざまに解釈されるところです。たとえば、2節にあるこの「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て」とされているところを、「天使たちは」と訳している聖書もあります。というのは、ここで「神の子たち」という言葉は、唐突に出てきているのです。しかし、この箇所を「天使たち」と理解することは少し無理があるといえます。というのは、新約聖書マタイの福音書22章30節には「御使はめとることも、とつぐこともない」と書かれていますからです。そうとすると、この「神の子」というのは、前の5章に記された系図にあるような「アダムの子であるセツの子孫」ということになります。であれば、「人の娘」というのは誰のことを指すかということになるわけですが、一般的に考えればその前の4章に記されている「兄弟を殺したカインの子孫」ということになるでしょう。5章に出てくる系図の民、神と共に歩むようになった民と、4章にある、力や権力によって文化を作り上げたカインの子どもたちとが、ここで一つとなったということのです。

 そうなると、ここで問題となるのは、ここで神の子たちと呼ばれたセツの子孫が、どうして、人の娘と呼ばれているカインの子孫の娘たちを妻としたかということです。ここに記されているのは、神への信仰に生きる者ものが、神から離れた者たちと結婚をしたということをここで言おうとしているのでしょうか。私が神学生の時に、河野勇一先生という緑バプテスト教会の牧師が、この創世記から説教されたものをくださいました。それを読むと、河野先生はこの箇所の説教で、こんなことを語っています。「ここからクリスチャンはクリスチャンでない人と結婚してはいけないなどと解釈してはならない。ここにはもっと深刻な問題が書かれている」と言うのです。

 ここには、このように書かれています。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした」(2節)と書かれています。以前の第二版では、「その中から好きなものを選んで、自分たちの妻とした」となっていました。「美しいのを見て、その中から好きなものを選ぶ」などというのは、今の私たちにとって当たり前のことのように思うかもしれません。ごく普通の一般的な感覚です。けれども、この牧師は言うのです。「ここで問題になっているのは、結婚をするときに何を基準に相手を選んだかということだ」と。結婚というのは人生で二番目に大きな決断の時だと、この牧師は言います。いちばん大事な決断は、「信仰をもつ」、「神を信じるという決断をすること」です。これは、神との契約です。そして、結婚するときにも、誓約をします。「病める時も、健やかなるときも、富む時も、貧しい時も生涯この人とともに歩む」という誓約をする。ここで、神の子どもたちは、神と共に生きるという誓約をして、今、また妻を迎える時には、この人とであれば神と共に歩むことができるかどうかを祈って決断する必要がある。このように、神と共にあって生涯を共に歩んでいく者を決断するのに、その判断基準が「美しいから」ということに変わってしまっているのではないか、とこの牧師は問いかけているのです。

 このような結婚観は、それこそ現代の当たり前の姿になっています。けれども、ここに大きな問題が潜んでいると創世記は記しているのです。この基準が、罪の更なる拡大となったのだということを、創世記はこの第6章で描いているのです。この6章の前半に描かれている問題は、神と共に生きる、妻も共に神と共に生きるということを人間が考えなくなった。そのような人生の本質的な問題を、ただの自分の好みの問題に変えてしまった罪を描き出しているのです。

 人間は、この自分の人生のために大切なこと、本質的なことは常に契約という形をとります。洗礼もそうです。結婚もそうです。会社に就職するとき、家を買うときも、車を買うときもそうです。そういう大切な決断をするときは、必ず契約を結びます。ところが、そのような大事な事柄が、単なる好みの問題になってしまう、自分の好き嫌いで判断できることだと、自分の人生を軽く見てしまっているのです。人間の犯す罪は、もはや際限がなくなっているのです。それで神は、このところで、自分の好みで神に定められた限界を超えようとする人間に対して、神は、制限を設けられました。それが、3節にある「人の齢は百二十年にしよう」という神の言葉の中に現れているのです。

 では、このネフィリムと呼ばれている巨人のことは、どうかということですけれども、これが巨人であることは、民数記13章33節に出てきます。これは、イスラエルの人々がエジプトで奴隷をしていた時に、エジプトから出て、神からの約束の地であるカナンに入ろうとしている時、モーセは若い人のリーダーとしてヨシュアとカレブの二人を選んでこの土に入る前に、斥候としてこの土地について調べさせます。そのときに、カナンの土地が裕福なのを見て、ヨシュアとカレブの二人は行きましょうというのですが、ほかの人々は言います。「私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリム人の末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えたことだろう。」と言っています。自分たちがバッタほどの小さな存在と感じるほど、このネフィリムは大きかったというのです。今日の箇所の4節を新改訳では「彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地にいた」という翻訳をしています。これはカトリックのバルバロ訳もそのように理解していますけれども、もう一つの翻訳はこうなっています。4節「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」

 今お読みしましたのは、新共同訳聖書ですけれども、このように神の子らが産んだ子どもがネフィリムであったというのが、そのほか口語訳ですとか、岩波の新しい月本訳ではそのように訳しています。この訳だと「神の子」というのは天使のような特別な存在という解釈が前提となっているようです。

 これによると、神の子どもたちが、美しい者に心ひかれ、神を軽んじて、自分たちに与えられている限界を超えようする行為が、ネフィリムなどと呼ばれる巨人を生み出したのだという解釈をしていることを意味します。けれども、神はこのように、人間がどのように神が設けた限界を破ろうとも、そのような努力は、結局神によって滅ぼされることになるということがここで語られているということです。それが、この後につづくノアの物語へと続く導入になっていくのです。

 こうして、神はついに語り始めます。5節から7節をお読みします。

 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして、主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで、わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

 この部分で人の心の中のことが語られています。「その心に計ることは、いつも悪いことだけに傾く」というのです。私たちの心は、いつも悪いことに傾いてしまう。この心というのは、思いだけではありません。この言葉は、感情だけではありません。その知恵も、また自らの意思をも含まれた言葉です。もはや、すべてが、すべての人間が、すべての自然が、すべての被造物が、その悪に支配されてしまってもがいているのです。そして、それと同時に、神の心までもが、悲しみに支配されてしまうのです。

 この箇所では神がどれほど人間を愛しておられるかが分かります。その人間がいつも悪に心が傾くのを神がご覧になられて、人に対してもはや何の関心も示さなくなってしまうとすれば、それは「ほうっておく」「無視する」ということになるでしょう。けれども、神はそうはなさいません。それは、それほどまでに私たちのことを愛しておられ、ご自分の心を痛められたくらい、愛してくださっているのです。 

 そして、次の8節に短い言葉でこう記されています。「しかし、ノアは主の心にかなっていた」と。このノアだけが、主の心にかなう生き方をしていたのです。こういうことができるかもしれません。「今や、この腐敗した世界はノアのゆえに保たれる」と。

 そうして、9節以降から神の壮大なる人類の再生計画が開始されます。そうです。これは、神の救いの物語なのであって、滅びの物語、裁きの物語ではありません。たしかに神は、世界を滅ぼす計画をお立てになりました。しかし、それは、世界を完全に滅ぼすものではありません。世界をもう一度再創造するための裁きでした。そのために、神はこのノアにすべてを託されたのです。このノアがどのような人物だったのでしょうか? 「ノア」という名前のもともとの意味は「休む、落ち着く、安らぐ」という意味です。そこから「慰め」とか「安らぎをもたらす者」という意味だと理解されるようになりました。

この慰めの人であるノアがそんな人物であったのか、それが9節に短く三つの言葉で記されています。それが「正しい人」、「全き人」、そして「神とともに歩んだ」という言葉です。

この「正しい人」という言葉は、「義人」とも訳される言葉で、法的に正しい、道徳的に正しいという意味があり、さらに、神との関係においても正しいということが、この言葉で表わされています。また、「全き人」というのは「非の打ちどころがない完全さ」をあらわす言葉です。ですからこの言葉は、旧約聖書の中で、神に犠牲をささげるときに、傷のない清い動物をささげるときに、この言葉が使われました。つまり、「聖い」ということをあらわしているのです。そして、「神と共に歩む」という言葉は、他のことばと言い表すために、11節では「地は暴虐で満ちていた」と「地」という言葉で表しています。神と生きていないことを、「地」で生きているということは、「神と共に歩む」ということば、あたかも「天」で生きているかのごとくです。これからの言葉は、旧約聖書だけでなく、聖書全体が常に大事に語り続けていることです。そうです。ここに聖書が示す、まことの人間の生き方が語られているのです。

 このように、ノアは、神がこの世界を裁かれる世界の終わりの時に、神の目にかなう生き方を生きた人物だったのです。それゆえに、神はこのノアに契約をお与えになられました。

 この時神がノアの語りかけられた言葉が、13節から21節にわたって記されています。1節から8節までに時間をかけ過ぎてしまいましたので、もうお読みすることはできませんけれども、ここで、神は箱舟をこのような大きさで造りなさいということ、そして、すべての命あるものを滅ぼすこと、そして、ノアの家族と、各種類の鳥、動物、地をはうものを二匹づつ生き残らせるために箱舟に入れるようにと語られました。

 私は、今、この個所を読むこともしませんでしたから、言葉で説明すれば、わずか三四行で説明できてしまうことですけれども、それを22節にこう記しています。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに、そのように行った」。

 何でもないことのように書かれていますけれども、これをすべてそのように行うことは簡単なことではありません。第一、箱舟を造るのに、ノアとわずか三人の息子たちです。もしそれぞれの妻が手伝ったとしても合わせて8人でこれを造り上げるのに、どれほどの時間を費やしたことか。あるいは、動物を二匹ずつ箱舟に入れることにしてもそうです。動物をどこからどう探して来たのか、餌はどうしたのか、場所はどうかなどということは書かれておりませんけれども、実に大変なことだったことは、想像するに難しくないことです。

 「すべて神が命じられた通りに行った。」というこの実に簡単な言葉は、実に行うことの難しいことでしょう。

 今日の説教題は、「神の契約」という題をつけました。しかし、よく考えてみると、ここには、契約といえるようなものは、ありません。契約というのは、たいていの場合、お互いが何かを提供し合うものです。お互いが誓い合うものです。18節でこう言われています。「しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ」と。けれども、ここで、神がノアに与えている契約は、ただ、一方的に神が命じられているだけです。ノアは、ここで一方的に従うことが要求されています。

 そうです。「神の命令」とは、そのまま、即、救いなのです。ある聖書学者は「神は命じることによって救済する」といいました。神が契約を与えてくださるということは、それはそのまま、その人を救うことなのです。だから、神は確信を持ってお命じになられるのです。そして、それに対して私たちは本来、ただ従順のみで応えられるものなのです。

 そもそも、私たちは、神と契約を結べるほど、対等に何かを差し出すことなどできません。けれども、ここで、神はそのことを承知の上で、「あなたと契約を結ぼう」と語りかけてくださるのです。それは、あなたが、これに従うなら、救いを与えようという招きでしょう。

 考えてみれば面白いものです。救っていただかなくてはならないのは、人間の方です。世界に罪がはびこり、無秩序になって困っているのは私たちの方であるのに、神の方から、私たち人間と契約を結ぶと言われるのです。本来ならこちらからお願いするべき事柄のはずです。これは、一体どういうことでしょう。「契約」というのですから、神の側で、この約束は破らないということです。つまり、それは、神が確実に救ってくださるということを、私たちが信じることができるために、そのように語りかけてくださっているということなのです。

 ここに神がどれほど私たち人間のことを愛しておられるかが分かります。人間が神から離れ、それゆえに自ら悪を招いてしまっている人間に対して、神は心を痛めておられる。そればかりか、そのような私たち人間を救いたい、新しくやり直しをさせたいとお考えになられて、「契約する」と言って救いの道を示してくださっているのです。

 そうであるとすれば、私たちはこの神のご配慮に対して、従う以外の選択肢はないのです。神に従うということは、難しいことでもなんでもありません。難しいことだと思ってしまうのは、この神の心が受け止められていないからです。分からないからです。もちろん、ここでノアに求められているのは途方もなく大変な作業であることは間違いありません。船を作る造船業の仕事をする傍らで、同時に動物園を作るようなものです。しかも、そのための人員は家族8人しかいないのです。けれども、こんなに仕事が大変だからできないと考えてしまうとすれば、それは自分のことしか見えなくなっているからです。そうなってしまうと、この神の私たちに向けられた愛の心が分からなくなってしまうのです。けれども、神がこれほどまでに私たちのことを気にかけ、愛してくださっているかさえ分かるなら、私たちはこの神に従うことができるように力をも与えてくださるのです。これが神の契約です。

先ほど、私たちには人生で二度大事契約を結ぶと言いました。約束事を誓うという話をしました。その一つは、神を信じるという契約です。この契約は洗礼式の時にいたします。そして、もう一つは、結婚の誓約です。そうです。もし、私たちがこの神の愛が分かるならば、神は、私たちをご自身の愛の中に置き、私たちを守ると神の方が約束してくださるのです。ですから、私たちは喜んでこの神の救いに対して、はい信じます。私をお救いくださいと約束することができるようになります。神は約束を反故になさるように方ではありませんから、心から信頼して誓いをすることができるのです。神が私たちを守ってくださるという約束は、神のお心の中に抱いておられる確かさが土台です。

ノアに与えた契約もそうです。神は確かなお方です。その思いをすぐに変えたり、諦めたりなさるお方ではありません。このお方の思いを知っているからこそ、私たちは結婚の制約をする時も、神との約束をする時には心から互いを信じて誓うことができるようになるのです。それは、決して相手が美しいから、自分の好みに合うからというような、私たちの感覚的なものではないのです。

 この主の契約を喜んで受け取るならば、私たちもノアのように、「正しい者」として生き、「聖い者」として生き、「神と共に歩む」ことができるようにされるのです。神がそのためにすべてを備えてくださるのですから、それができるようになるのです。神が、私たちに対しても、ノアと同様に、支えてくださるのです。そう信じて歩むときに、私たちの人生はノアのごとく、慰めのある人生を全うすることができるのです。  

お祈りをいたします。