聖書箇所:使徒の働き1章3-11節
鴨下直樹牧師
使徒の働き 1章3−11節「天に昇り、神と共に座するキリスト」
使徒信条による説教 11
2025.06.15
「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生けるものと死ねる者とを審きたまわん。」
先週の箇所と前後していますが、今朝は、この使徒信条の第二項の最後の部分から、み言葉を聞きたいと願っています。ここには、三つのことが記されています。それは「キリストが天に昇られたこと」、二番目に「全能の父なる神の右に座しておられること」、そして最後に「やがて再び来られて生ける者と、死んだものとを裁かれる」ということです。
使徒信条の原文には三つの動詞がでてきます。「昇られた」、「座る」、そして「やがて再び来られる」という言葉です。これらの文法の時制は過去、現在、未来と並んで記されています。チェコスロバキア出身のヤン・ミリチ・ロッホマンという神学者がこの使徒信条の解説の本を書いていますが、彼はここで、「このすべての動詞は間違いなく同じ名前にかかっている。すなわち、昨日も、今日も、明日もイエス・キリストである」と言っています。
このロッホマンは、チェコスロバキア出身の神学者です。この国は共産主義の支配の中にある国でしたけれども、途中で国がチェコとスロバキアとの二つに分かれてしまいます。それでロッホマンは、チェコの首都プラハで神学を教え、その後、アメリカのプリンストンで教えることになった人です。まさに、自分自身過去も現在も未来も、いつどのように変わるか分からない中で、それを一つに結びつけられる主イエス・キリストと共に生きている神学者だということができるかもしれません。
それは私たちにとっても同様です。主イエスは私たちの過去も現在も、そして未来も支配しておられるお方です。そして、そのお方を、私たちの主キリストと告白することがどのような意味をもつのかということを、今日一緒に考えてみたいと思うのです。
今日のところは、大変に内容の多いところです。ですから、様々な使徒信条の解説を読んでいましても、ほとんどの人はこれを3回に分けて論じています。それも大変丁寧な学び方だと思いますけれども、今日は一緒にこの三つのことを考えてみたいと思います。
まず「天に昇り」という信仰告白です。さきほどご一緒に使徒の働きの1章3節から11節までをお読みいたしました。この使徒の働きを書いたのは、ルカの福音書を記したルカです。ルカは、自ら記した福音書で主イエスの生涯を記しました。ルカの福音書の最後に記されているのは主イエスの復活した後の出来事です。主イエスがよみがえられたあとで、弟子たちと共に焼き魚を食べたという記事が最後に書かれています。
すこし古い人なのですが、キリスト教の信仰をもっておられた作家の椎名麟三という方がありました。この椎名麟三の著作集の中に『復活について』というのがありますけれども、そこで、「よみがえられた主が焼き魚を食べておられる。これがショックで自分の頭がおかしくなってしまったのではないかないかと思えるほどだ」と書いておられます。そして、実際に椎名麟三はこの時からこれまでの世の中が違って見え、私の生き方を変えてしまったと書いています。主の復活が、現実的にこの作家に迫ってきたのでしょう。とにかく、ルカはそのキリストのよみがえりを、非常に現実的に記して、その福音書を書き終えたわけです。
ところが、ルカは主イエスの福音書を記した後で、もう一度、筆をとることになります。今度は、主イエスの使徒たちの働きを記そうと考えたのです。それで、この使徒の働きを記すにあたって、どのように描き始めるかが非常に大事になるところですけれども、ルカは復活のキリストと昇天という出来事から書き始めたのでした。それが、先ほどお読みいただいた聖書箇所です。ルカとしてみればこのように記すことを通して、ここから新しい時代の始まるのだという思いを込めて記したと思うのです。ルカは、復活と昇天という出来事を一つのこととして書いただけではなく、ここから新しい時代がはじまったことを非常に意識しているのです。
よみがえられた主イエスは、天に帰って行かれる。この出来事はいったい何を引き起こしたのでしょう。そこには色々な意味がありますけれども、大事なことは、かつて主イエスが弟子たちに語られました。マルコの福音書14章の7節でこう言っています。「しかし、わたしは、いつもあなた方と一緒にいるわけではありません」。
この言葉は、弟子たちがいつまでも主イエスに依存していてはいけないことを教えるためでした。自分の信仰で立ちあがることを、主は願っておられたのです。またパウロはⅡコリント4章18節こう言っています。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」と。
主イエスが天に帰って行かれたのは、私たちが信仰に生きるようになるためでした。こう言うこともできます。私たちの信仰を確かなものとするために、主は天に帰っていかれたのです。
それは主イエスが、「天から」、「神の所から」来られ、神のところへ帰っていかれたことを私たちに明らかにするためでもありました。しかし、考えてみればこれは当り前のことで、天から来られたから、天に帰って行かれたのです。
そして、そこでやがて私たちが天に召されていく時、私たちの住まいを準備するために、主イエスは天に行かれるということも、私たちはヨハネの福音書14章2節のところから知っています。
ヨーロッパではこの主イエスが天に戻られた日、「昇天日」のことを「Himmelfahrt(ヒンメルファート)」と言って祝日になっています。この日は、祝いの日にするほど大きな喜びだということです。残念ながら私たち日本の教会では、そのような伝統はありません。けれども、お祝いするほどの喜びがここにあるということを、私たちは知っておくべきだと思います。
主イエスの昇天というのは、私たちは主イエスを見てはいないけれども信じている、その信仰が与えられている信仰の確かさを喜ぶ日だということなのです。
今、私は「信仰の確かさ」という言葉を使いました。信仰は確かなものだ、と言われるとある方は自分には自信がないと思われる方があるかもしれません。
ある時の礼拝が終わった後で芥見教会の方がこんなことを言われました。「聖書の中に、主よ、主よと言う者が天の御国に入るのではなく、神の御心を行うものだけが入る、と書いてある。これがとても怖いのだ」と言われました。これは、この方だけではなく、多くの方が抱く思いだろうと思います。自分の救いの確かさに自信がないのです。
使徒信条は、天に昇られた主イエスは、「全能の神の右の座についておられる」と告白します。これは、主イエスが今、現在しておられる働きのことを語っているわけですけれども、主イエスが何をしておられるかと言うと、一つは、神の右の座について私たちを監視しておられるということでしょう。
私たちが「主よ、主よ」といいながら、その行いにおいて正しくないとき、主イエスが全能の父なる神の隣にいて耳打ちをなさる。「いま、笠松教会の○○という者が、心の中で悪いことを考えています。」もしそうなると、わたしたちは、主イエスが父なる神の右の座におられるというと、なんだか心が休まらなくなってしまいます。
今日は色々な聖書の箇所を開きますが、ローマ8章34節でパウロはこのように言っています。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも、私たちのために、とりなしていてくださるのです。」
そして、その言葉の後には、私たちをキリストの愛から引きはなすものは何もないという、最高の恵みの言葉が語られているのです。
主イエスは、私たちをとりなすために、神の右の座についておられます。それは、こう言い換えてもいいものです。私たちがその救いを全うすることができるために、主イエスご自身が私たちの信仰がなくならないために祈っていて下さるということです。ですから、この信仰告白は、私たちの慰めの告白ということができるものです。
私たちは罪を犯します。私たちは弱い存在です。何が罪だということがよく分からないままに、罪を犯すこともあるでしょう。あるいは、罪だと気付いていても、自制が効かなくて罪を犯し続けてしまうこともあるかもしれません。私のようなものは、「主よ、主よと口先ばかりで唱える者で、ダメキリスト者ではないか」と自分に問うことがあるかもしれません。もちろん、私たちは神の御前に、毎日毎日、悔い改め続けていくことは大事なことです。自分は神の憐みによらなければ生きることができないほど、罪深く、どうしようもない人間だということを心にとめておくことは必要です。けれども、同時に、私たちは神の恵みの大きさを忘れてはなりません。神は私たちが罪を犯している時も、私たちのために祈っていて下さるお方です。私たちが信仰を無くしそうな時、私たちの信仰がなくならないように祈っていて下さいます。そうして、患難がおとずれても、苦しみがあっても、迫害があっても、飢えが襲っても、裸になっても、危険がせまり、剣の前にたたされたとしても、私たちをキリストの愛から引き離すことができないと、このローマ書の8章は、私たちに約束しています。このみ言葉に耳を傾けていただきたいのです。
私たちの信仰は、主イエスが保証してくだるのです。神の隣で、いつも祈っていて下さるのは、他のだれでもない、よみがえられた主イエス・キリストなのです。
ですから、この主によって、私の信仰は大丈夫だという確信を、私たちは自分の信仰の強さのゆえに保っているのではなくて、主イエスのとりなしの祈りのゆえに保たれていることを心に刻んでいただきたいのです。
さて、ではそうすると、私たちの犯してしまった罪の裁きというのはどういうことになるのでしょうか。使徒信条は次のように告白しています。
「かしこより来りて、生けるものと死ねる者とを審きたまわん。」
主は、そこからもう一度、私たちのところへ来てくださいます。これは「再臨」と言われる信仰です。そして、この再臨の時に、生きている者もすでに死んだ者も、全ての人が裁かれるのだとここで告白しています。これは、「最後の審判」と言われるものです。
ローマのバチカンに行きますと、そこにシスティーナ礼拝堂というのがあります。その礼拝堂に入りますと、ミケランジェロの描きました「最後の審判」の絵が、壁から天井までを覆う大きな絵を見ることができます。そう言いながらも、残念ながら私は実物を見たことがありません。
神がもう一度この地上に来られるとき、再臨の時に、最後の審判が行われる。私たちはこのことを聞かされているでしょう。このミケランジェロの描いた最後の審判の絵にあるとおり、それは人々に恐怖を引き起こすものであることを、私たちはよく知っています。
「最後の審判」ほど、キリスト教会の教理の中で人気のないものはありません。誰もがこの話は聞きたがらないのです。この世界がやがて滅び、すべての人々は神に裁かれる。「神の怒りの鉄槌が降り降ろされる」などと聞こうものなら、だからキリスト教は好きではないと言われてしまいかねません。ですから、近年では教会はあまり、この最後の審判のことを言わなくなりました。それは、みんなに嫌われてまで伝道したくないからです。けれども、プロテスタント教会は昔からこの裁きを語ることについては熱心でした。そうすると、カトリック教会のようなマリヤさまがみんなのためにとりなしてくださいます、という教えを聞こうものならば、人々は寄って集ってカトリックへ改宗したのです。ところが、今日ではプロテスタントでもあまり言わなくなってしまいました。
私は説教塾という、牧師の仲間があつまりまして、教団教派を超えて共に説教の研鑽を積もうという学びのグループに入っておりました。この説教塾の指導をしてくださっておられたのは昨年亡くなられた加藤常昭先生です。お名前くらい聞いたことがあるでしょうか?日本最大の名説教者と呼ばれた人で、実にこの方の多くの本が出版されています。この加藤常昭先生が依然、説教塾の説教の学びの時にこういうことを言われたことがあります。「この時代に語られなくなっている福音、あるいは聖書箇所があるなら、実はそれこそが、今日語られなければならない福音だ」と言われたのです。
この時の参加した説教塾で、牧師たちが真剣に学んでいたのは、「牧師はどのようにして裁きの言葉を福音として語ることができるか」ということでした。私自身もこの説教塾で実に多くのことを学ばせていただきました。
「神の裁きは、福音である」と聞くと、みなさんは首をかしげたくなる方もおられるかもしれません。神の裁きは、裁きであって、そこに慰めはないのではないかと、私たちは考えてしまいがちです。
ハイデルベルグ信仰問答という宗教改革者カルヴァンの流れにある教会が生み出した信仰問答集があります。そのなかにこういう問いがあります。
問い 「生ける者と死ねる者とを裁くための再臨は、どのように、あなたを慰めるのですか。」
答え 「わたしが、あらゆる患難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むことができるためであります。主は、わたしのために、すでに、神のさばきに対して、ご自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いてくださり、また主とわたしのすべての敵を、永遠の罰の中に、投げいれ、しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、み許しに召し、天に喜びと栄光のうちに入れてくださるのであります。」
もう一度、ある部分を強調したいと思いますが、この答えはこうあります。「主は、わたしのために、すでに、神の裁きに対して、ご自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いてくださった」と説明しているのです。
キリストが既にご自身を神の裁きの座に差し出されたのです。ですから、私たちはもう裁かれることはない、神の裁きは、主イエスを信じた時に、キリストがもう受け止めてくださっている。それが、私たちへの慰めなのだとハイデルベルク信仰問答は私たちに教えているのです。
今からもう25年前、1999年のことです。私は古知野の教会の牧師をしていました。その時の礼拝でヨハネの黙示録の説教をし始めました。世の中がもう最後の時が来ると騒いでいたからです。実は今年も東海聖書神学塾でヨハネの黙示録の講義をしています。この黙示録の解説には色々な立場のものがあります。読み比べてみると、これ以上面白い聖書の箇所はないかもしれないほど、実にいろいろな解釈の本が存在します。この黙示録の註解書の一冊に、ヘルムート・フライというドイツの神学者が書いたものがあります。この牧師は第二次世界大戦の時に、イギリスの捕虜となりまして、そのイギリスの神学校で講師になり、終戦後にまたドイツに戻ったという人です。この黙示録の6章の9節から11節にこういう言葉があります。「子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んだ。『聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。
ヘルムート・フライ牧師はそこでこういう解説をしています。「殉教者の口から、これほど非キリスト教的な報復の叫びを聞くとは、何と慰めに満ちたことだろう。神は殉教者たちの思いを知っておられ、彼らにゆるしの白い衣も与えられる。神は彼らに心の平安を与えられ、この平安の中で息づかせ、争いから解き放たれる。そして、彼らの兄弟がまた、もっと殺されるまで待つようにされる。許しに支えられ、このような待望のうちにも平安があるのである。」
ヨハネの黙示録が書かれた時代、教会は激しく迫害されていた時代でした。そして、これから起こる迫害の中で、信仰にとどまるように教えるために書かれたのがヨハネの黙示録です。この黙示録ではすでに迫害で殺された殉教者たちが神のみもとには大勢いて、その人々が、もういいかげんこんな世界を滅ぼしてくださいと叫び声をあげているというのです。そこでフライ牧師は、そんな叫びをしている殉教者たちの叫びを神は聞き届けておられて、その人たちに平安を持つように呼びかけ、まだまだたくさんの人が殺されるからそれまで待って休んでいるように言われる、そこに平安が語られているのは慰めだと言っているのです。
というのは、この牧師は自分自身が経験した第二次世界大戦を通して捕虜となりました。ところが、捕虜として連れて行かれた敵の国であるはずの国イギリスで、聖書を教えるように願われているのです。敵だと思って戦っている相手も、キリスト教の信仰に生きている人々が大勢いるのです。そこで、一体これは何のための戦いかと思ったのだろうと思うのです。すると、聖書の中でも、信仰の戦いのために命を落とした殉教者たちが、はやく裁いてほしいと神に訴えている姿を見たのです。フライ牧師はこの黙示録に描かれた姿に慰めを見出しました。どうしてかというと、神のところに、この世界を終わらせてほしいと声が届いていることが分かるからです。神は、既に聞いておられる。この世界の争いの中で、多くの人々が命を落とす。これは間違った世界です。神の造りたい世界ではないのです。そして、そのことを神はご存じで、そのように正しい裁きを求める人々を、あるいは、神の裁きが早く来るようにと求める声を、神は聞いておられ、そこで、神がその人々を慰めておられるのです。神の裁きがまだ行われていない中にあっても、神が裁きを行うから待っているように語っておられる、この姿もまた慰めではないかと、このフライは感じているのです。
神が裁かれるということはどういうことかというと、それは明らかに、この世界の罪の歴史が終わるということです。人間がそれ以上罪を犯すことがなくなるのです。主イエスは、もう一度来られます。この再臨の時、この世界を神はもう一度この世界を新しくしてくださいます。ヨハネの黙示録が語るように、神はこの世界の罪のために命を失われた、殉教者たちを慰め、そして、今この時も、この世界の一人でも多くの人が神に裁かれることがないように、救いの御手を差し伸べてくださっているのです。
神がもう一度来られるとき、それは私たちの側からみれば、神はハイデルベルグの信仰告白で告白されているように、私たちを神の国へと招き、この世界を完成してくださる時です。けれども、同時にその時が、この世界の罪が終わる時です。そして、その時までが、人に与えられた神の時、決断の時です。
キリスト者である私たちにとっては、それは慰めの時です。ですから、教会ではいつも「主よ、おいで下さい」「マラナタ」という祈りがされ続けてきました。私たちはそのように祈ることが許されています。けれども、同時に、主よお待ちください。まだ私の家族が救いを知りません。主イエスの救いを信じることができていません。そういう思いがあることも事実です。どうか、家族が救われるために、私たちの友達が救われるために、私を用いてくださいとの祈りを、この最後の瞬間まで祈り続けていきたいと思うのです。
神は、復活のあと40日間弟子たちと共に過ごされた後、天に昇って行かれました。私たちもやがて、いのちが尽きる時に、神が帰って行かれた天へと召されます。その時、私たちは主がおれるところと同じところへ招かれ、そこで、主と共に生きることが許されています。これは、主イエスを信じた者たちへの神からの約束です。そして、天で私たちはすでに神のみ前に招かれたすべての聖徒たちと共に、主を礼拝し、永遠の喜びの世界へと招かれていくことになるのです。主イエスは、私たちの過去の罪を赦し、現在の罪をとりなし、やがて受けるはずの神の裁きをすでに引き受けてくださり、永遠の御国に生きるようにしてくださったのです。これが、この信仰告白の意味です。そして、主はこの罪深い闇の世界を、完全な光の世界へと造り変え、この神の御国に私たちを招き入れてくださいます。
主は私たちの過去も、現在も、将来もすべてをキリストによって包み込んでくださるのです。このことよりも幸いな人生はありません。このキリストを主とする信仰が与えられていることを、私たちは喜びとしたいと思います。そして、自分の過去も、現在も、将来においても平安を与えることのできる主・イエス・キリストを私たちは、この与えられている時間の中でできるかぎり、私たちの周りの人々に伝え、またそのために祈り続けていくものでありたいのです。
お祈りをいたします。