主日礼拝メッセージ「低い者を顧みてくださる主」2026/03/22

聖書箇所:詩篇 138篇 1-8節
鴨下直樹牧師

鴨下牧師 笠松教会での最後のメッセージとなります。
長きにわたりありがとうございました。

2026.03.22

笠松教会説教 

 今日は、私の笠松教会での最後の礼拝説教となりました。二年間、あっという間でしたけれども、みなさんと共に本当に豊かな時間を過ごさせていただきました。また、みなさんがみことばに耳を傾けてくださることを喜びとしてくださっていることを、牧師としてとても感謝しています。

 そこで、今日は創世記の11章の終わりの説教をする予定でしたけれども、予定を変更して詩篇138篇から今日は共にみ言葉に耳を傾けていきたいと願っています。

 今日の詩篇、第138篇は表題に「ダビデによる」と書かれた詩篇です。この詩篇は「感謝の詩篇」と呼ばれる詩篇です。祈り手は、2節によると「エルサレムの宮に向かってひれ伏して」と書かれています。祈り手は神殿まで行って、そこでひれ伏しているのか、それとも遠くから神殿のことを思いながら、そこでひれ伏しているのかはっきりは書かれていません。けれども、エルサレムに神殿を建てたソロモンはかつて、神殿を建設した時に、「この宮に向かって、あなたに祈るなら、・・・彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえてください」と祈りました。それから、イスラエルの人々は神殿を訪ねて礼拝するだけでなく、エルサレムの方を向いて祈るという習慣ができたようです。たとえば、ダニエルなども日に三度エルサレムに向かって祈りを捧げたことが記されていました。

ただ、そう考えると、この詩篇138篇の時にはすでに神殿が建てられていることになります。ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでしたから、この詩篇は直接にダビデが書いたものということではなさそうです。ダビデに思いを寄せて作られた詩篇なのかもしれません。

 旧約聖書の時代に、すでにヘブル語からギリシャ語に訳された七十人訳聖書という聖書がありました。そこには、この138篇の詩篇には「ゼカリヤによる」という題がついているものがあるのだそうです。もしそうだとすれば、この詩篇はバビロンの捕囚が終わって、神殿が再建された時期に作られた詩篇なのかもしれません。  138篇と言いながら、その前に書かれている137篇を読むとそこにはとてもショッキングな出来事が書かれています。「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた」そういう衝撃的な言葉からはじまります。イスラエルの人々がバビロンに連れて行かれてしまったバビロン捕囚のことが記されているわけです。そのバビロンの地で、イスラエルの人々は「余興にシオンの歌でも歌えってみろ!」とからかわれていたことが書かれています。とても屈辱的な経験であったに違いありません。そんな辛い経験が書かれている137篇に続いて、この138篇は感謝の歌が記されているわけです。バビロンから帰国して、故郷の地に再び神殿が再建される。これは、イスラエルの人たちにとって嬉しい経験だったことでしょう。バビロンの地で蔑まれてきた70年という年月があったからこそ、ここでの感謝は本当に大きな感謝な思いがあったに違いないのです。

 冒頭の1節から3節までに感謝の言葉が繰り返し語られています。その中心にある想いは、2節の後半「あなたのみことばが高く上げられたからです」とその感謝の理由が記されています。バビロンにいた時、預言者たちから聞いた約束のみ言葉が、その通りになった。主の約束が現実のものとなった喜びが、人々の心の中に、満ち溢れているのです。

 この詩篇の面白いのは、4節のところで、「地のすべての王たちはあなたに感謝するでしょう。」と言っています。地の王たちが主に感謝を捧げていると言って、その感謝をささげる理由は何かというと、「彼らがあなたのみことばを聞いたからです」となっています。

 この王さまたちは主のみことばを聞いて感謝した。どういうことなのか、分かりにくいのですが、この地上にはバビロニアやアッシリアという王たちの時代が次々次に入れ替わるように支配が変わっていきます。けれども、イスラエルの主のみことばは、それらの地域を支配して苦しめることを目的としませんでした。領土拡大の野心もありません。そのような神のことばを耳にした王たちは、こうしてイスラエルが再建させる姿を目の当たりにしながら、この主の支配が及ぶことを心から感謝することが出来たのだと思うのです。

そしてここから、この5節から読んでいきますと少しずつ感謝の内容が見えてきます。

「彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。」

 王たちは、主が歩まれた道、イスラエルの道を知って、その栄光の大きさに歌い出すと言っています。今も、中東で戦争が続いています。今のイスラエルが主の道を歩んでいるといえるかどうか、考えさせられてしまいます。地の王たちが、今の現状をみながら主の栄光の大きさを仰ぎみられるかどうか、まさにこの詩篇にあるようになるとすれば何と幸いなことでしょう。少なくとも、この詩篇が記された時代には、こう歌うことができるようになるほどに、神の御業が、力強く証されたことは間違いありません。

この詩篇の面白いのはまさにここからです。

「まことに主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。」

 主なる神は、偉大な王や、名前を高めた者を顧みられるのではなく、低い者を顧みられるというのです。歴史に名を馳せた王たちではなくて、低い者、小さな者に主は目を留めてくださるお方なのだと、この詩人は歌っているのです。  王たちは主のみことばを聞いたと言っています。どんな言葉を聞いたのかまでは書かれていないので分かりませんが、主は低いものを顧みられるお方だということが、ここで語られているのですから、王たちが聞いたのは、この御言葉なのかもしれません。この地上の王たちにも、この主のみ言葉がとどくことを願っています。

 まさに、王とは名を高め、偉業を成し遂げることなのではなくて、民のために低くなり、低いところにある者を顧みられることこそが、主のなさる業、王たるもののなせる業なのだというメッセージがここから響いてくるのです。

 それは、まるで新約聖書で主イエスが弟子たちに語られたメッセージのような響きがあります。誰が一番偉いのかを話し合っていた弟子たちに主イエスは、後の者が先になり、先の者が後になると言われました。まさに、そのことがここで語られていると言えます。

 私たちは、この世界で偉業を成し遂げるような力強い王ではないから、その点自分は大丈夫だなどと言うこともできません。自分はそれほど大きたことをしてきたことは無い者だと分かっていたとしても、そういう小さな者たちが集まれば、その中で少しでも優位なものを探し出してはそれを勝ち誇りたいのが私たちの姿なのではないでしょうか。

 今、受難節を過ごしています。受難節には紫色の蝋燭を7本ならべて、毎週一本ずつ蝋燭の日を消していくという習慣があります。そうすると、最初の週の蝋燭は長いままなのですが、3週間、4週間と過ぎるうちに、蝋燭が短くなってしまいます。ある時、教会の子供が短くなった蝋燭を見て言いました。「この短い蝋燭、僕みたい」と。小さくなった蝋燭を見て、小さな自分と重ね合わせたのです。けれども、本当はその逆です。長い蝋燭は子どもの蝋燭で、短くなった、使い込まれた蝋燭は大人になった者の姿です。そうすると、それを聞いている私たちの心は少し痛くなってしまいかもしれません。短くなった蝋燭には価値がないかのように錯覚してしまうからです。

 私たちはこの蝋燭のように、高ければ高いほど、長ければ長いほど、価値があると思い込んでいるのです。しかし、主は、ここでこう言っておられるのです。私たちの主は、自分自身を灯し、身をすり減らして小さく、短くなってしまったことさえもよく知っておられるお方です。このように主は、人が見るところではなく、人の目に止まらないような者でさえ顧みてくださるお方なのです。

 

これが、聖書の妙です。

 私たちの主は、小さな蝋燭を集めて喜ばれるようなお方なのです。もし、私たちが主なる神様のコレクションボックスを見せてもらうような機会があったら、きっとその中身を見て、私たちは驚くに違いないのです。神様の宝箱には、美しい金銀財宝がはいっているのではなくて、使い込んで短くなった鉛筆やら、ボロ雑巾やら、欠けたコップやら、飾りの取れたアクセサリーのようなものばかりが入っているのです。  私たちの主は、人が見る者とは違うところを見ておられるお方です。人とは違うところに価値を見出しておられるのです。そして、きっとそれを見た時に、みな嬉しい気持ちになるに違いないのです。安心するに違いないのです。ああ、私はこれで大丈夫だったのだと、その主の手の中にあるものを見て、私たちは主のすべての悟ることができるのだと思うのです。

なぜ、主はそのような低い者、小さな者に目を留められるのでしょう。なぜ、主は人が好むものや、人が価値を見出すようなものにではなく、小さな低い者を顧みられるのでしょう。それは、主ご自身が、自分の身を削り、身を切るようにして人を愛することこそが、主の御業だからなのです。だから、私たちもこの主に倣ったらよいのです。今更、高くなること、偉大な者になることに目を向けなくても、私たちにはできることはいくらだってあるのです。そのような愛の業を主は喜んでくださるお方です。

 主は低い者を顧みられるお方なのです。

 だから、祈り手は続いてこう祈ることができました。

「私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。」

 主が私の味方なのだと、こう確信して生きることができるのです。低い者を顧みられる主は、きっとこの私を蔑む者たち、自分の価値を認めてくれない者たちに対して、腹を立て、怒り、その中から主の右の手で私を救い出してくださるに違いないのだと信じることができるのです。

 そして、この詩篇はこのような言葉で締めくくられています。

「主は、私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」

 「私のためにすべてを成し遂げてくださる」、そんなことあり得るかと思うくらいの内容です。この祈り手は、そこまで深く主を信頼しています。完全に自分の味方であると信じているので、こういう言い方ができるわけです。もう少し謙虚になったほうがいいのではないかと、少し私などは気になってしまいますが、その後の文章を読むと、それが願いであるということがよく分かります。

「あなたの御手のわざをやめないでください。」

 なぜ、ここまで信頼して祈ることができるのかというと、主がそのわざを続けてくださるということに、全てはかかっているのです。だから、こう祈るのです。

「あなたの御手のわざをやめないでください。」

 もし、主がもうご自分の宝箱であるコレクションボックスに、もう沢山集まったからこれ以上は必要ない、もう充分と考えたり、それに飽きてしまったりしてしまえば、それまでの主のわざに期待することができなくなってしまうと考えられるのかもしれません。だから、祈り手は言うのです。「あなたの御手のわざをやめないでください」と。

 けれども、主の恵みはとこしえにあるのです。とこしえに変わることがないのが主のご性質です。だから、私たちは安心して、この主に期待したらよいのです。

私たちの主は まことに高くあられますが、低い者を顧みてくださるお方なのです。

 お祈りをいたします。