主日礼拝メッセージ 使徒信条による信仰10「復活の主」 2025/04/20

聖書箇所:マタイの福音書28章1-20節
鴨下直樹牧師

マタイの福音書28章1-20節 「復活の主」

使徒信条による説教10

2025.04.20

 主イエスの復活の日の朝、まだ明け方です。マグダラのマリアともう一人のマリアとは、主イエスを葬った墓に出かけます。しかし、主イエスの弟子たちはどこにも出かけないで、閉じこもったままでした。マタイの福音書ではあまり詳しく書かれていませんが、ここにはこう書き記されています。二人がどうして墓に行ったかというと、大きな地震があったからだと2節に書かれています。二人の女の弟子たちは行ってみると、そこで御使いとお会いし、主がよみがえったことを知らされます。8節には、こう記されています。「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った」。ここで動いているのは女の弟子たちです。男の弟子たち、十二弟子たちは何も書き残す必要がないほど、彼らは何もしていないのです。

 他の福音書を見ますと、たとえばヨハネの福音書は、復活の出来事が20章に記されていますけれども、この女の報告を聞いたペテロともう一人の弟子は2節では空になった墓に走って行ったことが記されています。しかし、その後のヨハネの福音書の20章19節にはこう書かれています。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」とあります。

 ここには、主がよみがえったという話しを聞いても、自分の目で空の墓を見ても、何の反応もすることができず、締め切った扉の部屋の中で、恐れの中にいる弟子たちの姿が描き出されています。ペテロたち主イエスの弟子たちは、主イエスを失い、恐れに支配されて、動き出せないで閉じこもっているのです。ここに悲惨な人間の姿が描き出されています。

人間の悲惨さというのは三つの側面で表れてきます。その一つは命に関するもので、死に対する恐怖という姿で現れてきます。二つ目は、人生の目的、生きる目標、使命に関するもので、虚しさ、無気力、無意味さという苦しみを生み出します。三つ目は、神との関係、あるいは人間との関係に関するもので、このような関係を失うと、平安ではいられず、混乱した姿となって現れます。この三つのことを実体概念、目的概念、関係概念という3つの概念で説明することができます。ただ、何もそんな何々概念などという難しい言葉で説明する必要はありませんので、心にとどめておいていただければそれでいいと思います。いずれにせよ、その三つがかみ合わないこと、これが人間の悲惨な姿となって現れるのです。

 今ここで弟子たちはこの三つのすべての面からみても、すべてにおいて悲惨な姿をさらけ出してしまっています。これが、主イエスを失ったこの弟子たちの姿です。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて閉じこもっているのです。今度は自分たちが殺されるのではないかという恐れです。主(あるじ)が裁かれれば、弟子も裁かれるのは当然ではないかという不安です。

 また、自分たちの今までの働きは意味がなかったのではないかという、自分たちの生き方の目当てを失ってしまった情けない者の姿がここに表わされているということができるでしょう。また、主イエスを失ったことを通して、神との関係を見失ってしまい、人をも恐れないではおられなくなってしまった情けない人間の姿がここに描き出されています。この三つの悲惨な姿が、ここで全てあらわれているのです。

 これほど哀れで、みじめな者の姿はありません。いのちの喜びもなく、生きる意味も希望も見いだせず、そして神も人をも恐れて生きなければならないほど、情けない姿はありません。この弟子たちの姿を良く目に焼き付けていただきたいのです。

 イギリスの聖書学者であり、説教者でもあるJ・ステュアートの『受肉者イエス』という本があります。数あるイエス伝の中でも、私は最もすぐれた本だと思っている書物です。この本の中に、二枚の絵のことが記されていました。

一枚目の絵には、まさしくこのような弟子たちの姿が描かれていて、こう記されています。

「扉は堅く閉め切られ、窓も堅く閉ざされた暗い部屋のなか。誰の顔にも恐怖が見える。しかし、恐怖以上にさらに著しく、失意が、絶望的な決定的な回復しがたい失意が、誰の顔にも刻まれている。あまりに痛ましく悲しみに暮れて、物を言うこともできず、魂は無感覚で祈りさえできずに、茫然自失、途方に暮れて、彼らは黙って座っている。すべては終わった。生きる目的は何も残されていない。これが一つの絵です。無残な徹底的に敗北の絵です。

もう一枚の絵があります。数週間後のこと、同じ集団の同じ人々。しかし、もはや、閉ざされた戸の背後にこそこそと隠れてはいない。彼らは街頭にでている。彼らは超自然的な確信に燃えつつ立つ人で、彼らの言葉は鉄のように鳴り響く。この世界が聞かざるを得ないメッセージを彼らは携えている。彼らは全然恐れを抱かない。圧倒的に幸福である。そして彼らは、世界征服を企てている。」

こんなことが、あり得るのでしょうか。 いったい何が起こったらこんなにも大きな変化がおこるのでしょうか。 歴史家たちは口をそろえてこう語ります。「何が起こったなどということを、私たちには説明することはできない。しかし、彼らは突如としてそのような行動をとるようになったのだ」と。

けれども、私たちは、今そのことを知っています。それは、キリストがよみがえったから起こった出来事だということを、私たちは知っているのです。そして、そのことを覚えてお祝いするのがイースターです。

 人間の絶望的な姿それはどこから来るのでしょう。それは「恐れ」から来ると言うことができます。死を恐れる。人を恐れる。自分自身がその責任を取らされることを恐れる。自分がしてきたことに、何の意味もないことを恐れる。そして、神を恐れる。

 弟子たちが恐れたのは、まさにこれらの事柄でした。そして、この恐れは、私たちの持つ恐れと、本質的には同じです。

 では、この恐れはどこからくるのでしょうか。自分が弱いからでしょうか。それもあるでしょう。自分が間違っているからでしょうか。それもあるでしょう。自分が正しくないからでしょうか。それもあるでしょう。自分が完全ではないからでしょうか。そうです。私たちは不完全だから恐れるのです。そして、恐れの本質は罪に根ざしているのです。こう言い換えてもいい。「恐れは、神を見失っているところから来る」と。あるいは、こうも言うことができます。「死に支配されているところから来る」のですと。

 聖書が告げる復活のメッセージは、いつも、「恐れるな」という言葉が繰り返して語られます。御使いも、主イエスも、繰り返してこの「恐れるな」と語るのです。それは、絶望の中に生きている者は、恐れに支配されていることを、何よりも主がご存知だからです。そして、それは死の支配から来るものであることを、何よりも主イエスが見抜いておられるからです。

 恐れに生きる者は、望みに生きることを止めています。望みを持つことができない者は、いつも過去に目を留める他ありません。死んだら終わってしまう。自分が生きてきたことは無意味である。そのような考えは、まさに、神を見失った世界の人間が考え続けていることです。

神などいないという人間は、常に自分の過去に目をとめて生きることしかできません。それはもはや、それだけで望みのない生き方、いや、すでに裁かれた者の生き方にすぎないのです。なぜなら、その人はもはや、自分一人で生きる他なく、人と共に生きることができないからです。そして、命そのもののもつ喜びをも失ってしまっているのです。

 しかし、主イエスはそのような神を失い、失望の中にいた弟子たちに向かって語られます。「恐れるな」と。

 復活の主とお会いするということは、この恐れに中に、生きることから突き抜けて生きることができるようにされることでなくて、なんでしょう。復活の知らせは、私たちのあらゆる恐れを打ち破るのです。

 復活の主は、マタイの福音書28章の10節では、女の弟子たちに向かってこう言われました。

「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

主はその場所でお会いになるのではなく、ガリラヤに行くようにと語られました。新しい目当てを示してくださる、目標を与えてくださるのです。そして、ここで主イエスは「弟子たち」と言わずに、「兄弟たち」と語られました。それは、ただ将来の希望を示すだけでなく、その存在自体が、新しく変えられたことを告げる言葉を語られたのです。

主の復活の持つ意味が三つあります。さきほど説明した三つの概念で理解することができます。第一は実態概念ですが、復活の意味というのは新しい命を与えることです。それは、新しい存在となるということです。聖書はそれを永遠のいのちを持つという言い方で語っています。「新生」とか、「聖め」、「聖なる者となる」というのはこの実態概念の中に含まれます。

第二は目的概念で、新しい使命を与えられるということです。神によって新しい希望が与えられ、望みに生きる者としてくださるのです。聖書はそれを神の国に生きる、とか神と共に生きるとか、あるいは御国を相続するという言い方で語られます。

復活の意味の第三は関係概念ですがこれは、新しい関係の中で生きる者としてくださるということです。神との関係が新しくされ、人との関係も新しくなります。これは聖書では「罪の赦し」として語れています。また、「義認」とか「神との和解」という言い方をすることもあります。神と人との関係が新しくなると、人は平安に生きることができるようになります。

この三つのことを私たちは心にいつも、とめていきたいのです。新しく生きるものとされ、新たな使命が与えられ、平安に生きるものとされます。これが、復活の主イエスと共にある歩みです。この主の復活を通して、私たちは全人格的な救いを経験するのです。

ですから、主イエスの復活を信じる。と私たちが告白する時、それは、復活という出来事が起こったということだけを告白しているのではないのです。復活という出来事であれば、たとえば、聖書の中に、マリヤのマルタの兄弟であったラザロのよみがえりのことが記されております。けれども、このラザロはやがて死にました。主イエスの復活は、「死んだ人間が生き返った」ということではないのです。たとえば、それは、葬儀の最中に亡くなったと思われた人が息を吹き返したなどというたぐいの話しと、同じになるものではないということです。

主の復活というのは、もはや、死が支配しない者となったということです。死に勝利をされたのです。ですから、この信仰告白は続いて「天にのぼり」と続いているわけです。

私の座右の書と言ってもいい読み物があります。それは、先ほど二枚の絵の話しでも紹介した、ジェームス・ステュアートの記したまた別の書籍で『永遠の王者』という説教集です。小さな本です。残念ながらもう絶版になってしまっているものですけれども、私は、この説教を読むときは、ちょっと覚悟して読まなければならないほどの本だと思っています。というのは、一度この説教を読むと、私は眠ることができなくなってしまうからです。この牧師の語る福音の言葉に圧倒されて、それこそ興奮してしまって眠れなくなることがあるのです。ですから、できるだけ夜には読みません。

 このステュアート牧師が、この本の中で復活の説教をしています。それは、私も礼拝で時折、祝祷の時に用いますけれども、ヘブル人への手紙13章20-21節の御言葉です。

 「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」

 この箇所は新改訳2017では以前と翻訳が変わってしまっています。以前の翻訳、第二版ではこうなっていました。「あなたがたがみこころを行うことができるために、すべてにおいて、あなたがたを完全な者としてくださいますように」

ステュアートは、この部分の言葉に関してこう言っています。あなたがたは「みこころを行うために、すべてにおいて完全になる」ことなど不可能だ、夢のような理想だと思っているのではないか? そのように問いかけるのです。けれども、このヘブル書の著者は、復活から始めていることに目を留めるべきだと語っています。復活の主イエスは、私たちが神のみこころを行うために、すべての良いわざのために、あなたがたを完全な者としてくださるのだと語ります。

そして、この説教の中でこのように語っています。少し長いのですが、そのまま紹介したいと思います。

 「ここにひとつの提供品があります。それはイエスのために死を破壊された力であり、この瞬間にも、その中でキリストが生きており、私たちが今生きるのを助けて下さる力です。 確かに、初代のキリスト教の無限の活力を説明できるのは、これをおいて他にありません。こうしたイエスの弟子たちは、肉体的にも、道徳的にも、霊的にも、何百回となく失敗し、敗北感で打ちしおれている人々のところに行き、『ここに勝利の道がある。神は主イエスを死人の中から再び引き上げられた。この力が働くならば、あなたに何も起こらないとは言えないでしょう』と言いました。 これがメッセージだったのです。・・・新約聖書の中に登場するこれらの人々は、『私たちはそれを知っています。というのは、それを体験したからです。私たちのために、その力は働いたのです』と常に続けていうことができました。」

 

このステュアートの洞察は、実に力強い言葉だと私は思います。弟子たちは自分自身が何度も失敗し続けてきた弱い人間であることが良く分かっていました。けれども、主イエスの復活を知り、この神の力が働くなら、あなたにも何かが起こると信じられるでしょう!と語り続けてきたというのです。この弟子たちの言葉は、自分の実体験に基づくものだったので、人々に説得力をもたらしたのです。

 あのステュアートが語った二枚の絵を思い起こしてください。一枚は完全な敗北の絵、閉じ込められた暗い部屋でうなだれている弟子たちが描き出されているあの絵です。もう一枚は、希望に輝いて通りに出て行って福音を語っている弟子たちの絵です。

あそこで起こった弟子たちの変化は、この主イエスの復活の力を知ったかどうかです。復活の力とは、死を破壊した力です。この力が、今、私たちの目の前にも提供されているのです。この力は、何度となく失敗を繰り返し続けてきた私たちにとって、この力が働くならば、何事かが起こると信じるに値するものです。かつて新約聖書の人々はみな、この力を、身をもって味わってきたと続けて語ることができたのです。

 この復活の力が、不完全な私であったとしても、この私を完全な者に変えることのできる力だというのです。私がそれをするのではない、復活の神がそれをさせてくださるのです。

 ステュアートの言葉でいえば、「この提供品」は、あるいは、「この贈り物」は、私たちが手を出しさえすれば、私たちのものになるのです。

神は、復活の力を私たちにお与えくださいます。何度でも挫折を味わう私たちのようなものに、主は復活の力を与えて下さるのです。私たちの存在を新しくし、私たちを喜ぶことができるようにし、私たちが望みを持って、目標を持って生きることができるようにしてくださる。新約聖書の聖徒たちとともに、私たちもまた、わたしもそれを経験しましたと、告白することができるようにしてくださるのです。

 

「三日目に、死人のうちよりよみがえり」と私たちが使徒信条で告白するのは、このような意味の信仰の告白です。女の弟子たちや、ペテロや、トマスや、十二人の弟子たち、その後五百人の弟子たちが復活の主にお会いすることができました。そして、それぞれが、復活の証人となって、この力を、身をもって味わうことができたように、今日も私たちが、この復活の証人とされ、私たちもそのようなことを自ら経験することが許されているのです。そして、今度はこの私たちがこのよみがえりの主イエス・キリストをこの教会を通し語り続けていくのです。その常に中心にあるのは、この復活の力です。   

お祈りをいたします。