前回疑問に思いつつも紙幅に余裕がなく、記せなかったことがある。『尾濃葉栗見聞集』が書かれたのは享和(1801)年である。信長が岐阜や安土で宣教師たちと謁見したのは1570年代のことであるから、『尾濃葉栗見聞集』が書かれる約230年前のことである。幕府のキリシタン禁教政策が続く中、民衆の間で230年前の宣教師たちの働きがずっと記憶され続けていたのだろうか。また、『尾濃葉栗見聞集』にはキリスト教伝来の年は正親町天皇の時代、永禄11(1568)年であると記されているが(「岐阜キリシタン小史(21)参照」)、そのことも記憶されていたのであろうか。興味深い。
さて、前回に続き、「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」について見ていきたい。
「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」続き
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