ルイス・フロイス『日本史』 信長関連の記事のまとめ
岐阜キリシタン小史(43)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師③―
フロイスとロレンソの信長謁見、フロイスの『日本史』のこと
私が所属する教会の母団体である教団には、遠いドイツの地よりイエス・キリストの福音を伝えるために来日された宣教師が何人かいる。その尊い献身に対し、私は心からの尊敬と感謝を捧げたい。
かつて、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・フロイスもまた、同じ熱意をもって海を渡った。1532(享禄5/天文元)年にリスボンで生まれたフロイスは、1548(天文17)年、わずか16歳でイエズス会に入会し、すぐにアジア布教の拠点であるインドのゴアへと旅立った。ゴアで司祭となった後、1562(永禄5)年にゴアを出帆し、マラッカやマカオなどを経由し、1563(永禄6)年、ついに日本の長崎に到着した。16歳でリスボンを出てから実に15年。この長く困難な旅路の果てに日本を見つめた彼の福音への熱意と忍耐には、私は改めて畏敬の念を抱かざるを得ない。
岐阜キリシタン小史(42)―岐阜を訪れた宣教師たち②―
順応者フロイスと厳格者カブラル
16世紀の戦国時代に日本へ渡来したイエズス会宣教師たちは、キリスト教の布教という共通の使命を帯びながらも、その宣教戦略においては大きく異なる考え方を持っていた。巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノやルイス・フロイスに代表される「順応主義」と、フランシスコ・カブラルに体現される「非順応主義」は、異文化との接触における二つの対照的なアプローチを示しており、日本における初期キリスト教の展開に影響を与えた。この両者の思想と行動の対立は、単なる個人的な意見の相違に留まらず、イエズス会全体の東方宣教方針を巡る重要な議論を内包していた。
“岐阜キリシタン小史(42)―岐阜を訪れた宣教師たち②―” の続きを読む岐阜キリシタン小史(41)岐阜を訪れた宣教師①
16世紀の世界の潮流、日本そして岐阜への宣教の道
これまで『岐阜キリシタン小史』では、岐阜を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスについて、断片的に触れるにとどまってきたが、あらためて彼のことを深く掘り下げてみたいと長く考えてきた。また、フロイスとは異なる宣教方針をもちながらも、同じく岐阜の地を踏んだフランシスコ・カブラル、そしてオルガンティノやロレンソ了斎のことも岐阜との関わりで記してみたいと考えた。
今回から数回にわたって彼らの生涯を辿りつつ、彼らが日本キリシタン史に残した功績、そして当時の論争について記していきたいと思う。
岐阜キリシタン小史(40)―ロレンソ了斎と岐阜、そして信長、秀吉との関わり―
ロレンソと美濃、そして信長の心を捉えた宗論
ロレンソ了斎と天下人・織田信長との出会いは、日本のキリスト教史における決定的転換点となった出来事である。
信長が岐阜に入城する数年前、ロレンソの言葉は既に美濃の地に届いていた。永禄3(1560)年、美濃の武将・山田庄左衛門が京都でロレンソと宗論(一度目の宗論)を交わし、その論理的な回答と信仰の深さに心を奪われ、洗礼を受けて改宗した。庄左衛門は美濃のキリシタン伝道の先駆者となり、ロレンソが後に岐阜を訪れる道筋をつけた(このときの顛末は岐阜キリシタン小史(6)を参照のこと)。
岐阜キリシタン小史(39)―『南蛮屏風』に描かれたロレンソ了斎―
下の老人の絵をご覧いただきたい。
和服姿で、右手に杖、左手にロザリオを握った年老いた日本人修道士。この人物こそ、イルマンのロレンソ了斎であるとされている。白い眉毛で背中が曲がった老人の姿は、当時の記録に基づいた彼の特徴であったという。
この図像は、狩野内膳(1570~1616)が描いた『南蛮屏風』の右隻に描かれている。
内膳の落款を伴う『南蛮屏風』は5 件確認できるそうであるが、この屏風は神戸市立博物館蔵のものである。(余談であるが、この博物館は前身のひとつが神戸市立南蛮美術館であったため、南蛮美術の世界的なコレクションを多数所蔵していることでも知られている。)

岐阜キリシタン小史(38)―日本宣教を支えた修道士・ロレンソ了斎―
16世紀、日本にキリスト教が伝来し、多くの宣教師たちが来日して宣教活動に励んだ。ザビエル、フロイス、ヴァリニャーノ―彼らの働きは広く知られているが、その陰で日本人イルマン(修道士)のすばらしい働きがあったことをご存じであろう。もし彼がいなかったなら、日本の宣教は大きく遅れていたに違いない。その名はイルマン・ロレンソ(ロレンソ了斎)。そのロレンソ了斎(以下ロレンソとのみ記す)について、今回から数回にわたり紹介したい。また、このロレンソと岐阜とはわずかではあるが関わりがあるので、そのことについても触れていきたい。
岐阜キリシタン小史(37)《証し》感謝!!「美濃のキリシタン」展
この夏、岐阜県美濃加茂市にある美濃加茂市民ミュージアムで「美濃のキリシタン秘められた祈りの証し」展が開催された(2025.7.12-8.24)。私は、個人で、現地ミニツアーで、講演会で、そして妻と、都合4度、足を運んだ。少し遅くなったが、今回はこの企画展を通して教えられたこと、気づかされたことを書いてみたい。

岐阜キリシタン小史(36)―大垣藩戸田氏鐵(うじかね)と島原の乱―
前回、大垣藩の初代藩主であった石川康通(やすみち)(1554-1607)について触れた。康通は晩年にキリスト教に入信し、亡くなる前年に洗礼を受けた。
康通の死後、石川家は2代家成、3代忠ただ総ふさと続くが、忠総の時に大坂の陣の功績により、豊後日田藩へ移封となった。その後、大垣藩では藩主が短期間に交代を繰り返す時代が続いた(石川家 → 久松松平家 → 岡部家 → 再び久松松平家)。
寛永12(1635)年、この流れは一変する。摂津国尼崎藩より、徳川譜代の戸田氏鐵(1576-1655)が10万石で入封した。氏鐵は尼崎藩主時代、築城技術を認められ、大坂城の改築工事の総奉行に任命されたことがあった。また、4代将軍徳川家綱誕生時の「へその緒を切る役目」を任されるなど、彼の徳川幕府内における信頼の厚さは、きわめて堅固なものであった。
寛永14(1637)年、九州で島原の乱が勃発する。乱の原因は、島原藩(藩主松倉勝家)、唐津藩(藩主寺沢堅かね高たか)による苛烈な重税と、幕府が推し進める非情なキリシタン弾圧であった。幕府は、乱の鎮圧のため板倉重昌(重昌の父勝重は京都所司代在任中に「京都大殉教」(元和5(1619)年)に関与)らを派遣し、九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。
岐阜キリシタン小史(35)―大垣のキリシタン―
岐阜県西濃地方のキリシタンについては、これまで詳しく触れる機会がなかった。
西濃地方にもキリシタンがいたことは、『尾濃葉栗見聞集』に記録が残されている(「岐阜キリシタン小史(20)」参照)。また、「岐阜キリシタン小史(11)」の年表の中で、天正10(1582)年と慶長11(1606)年の出来事について言及したが、それ以外の記事を見つけられなかった。
今回は、最初にこの慶長11(1606)年の出来事に注目する。
大垣藩の初代藩主石川康通(1554-1607)は、徳川家康の重臣であった石川家成の長男として生まれ、徳川譜代大名として重要な地位にあった。また、康通の従兄には石川数正(後に豊臣家に仕える)がおり、彼はキリスト教に関心を持っていたとする説があるなど、石川家とキリシタンとの関わりは以前からあった可能性がある。康通は関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6年(1601年)に美濃大垣藩の初代藩主として5万石で入封した。
慶長11(1606)年、康通は正式にキリスト教に改宗し、「フランシスコ」という洗礼名を授かっている。しかし、改宗の翌年慶長12(1607)年に病のため亡くなった。その後、彼の妻が京都でキリシタンの支援者になったという記録が残されており、康通の死後も石川家とキリスト教徒の関係が続いていたことが窺える。
康通が受洗した同年に、稲葉政貞夫妻とその家臣50名も受洗している。稲葉家は将軍家光の乳母春日局とゆかりのある家であり、政貞は春日局の夫・稲葉正勝の養子である。彼は徳川家康に仕えて御小姓となり、美濃国十七条(現在の岐阜県瑞穂市十七条)で千石を拝領した。その後、尾張藩主徳川義直の家臣となっている。
そして、今回はもうひとつの別の出来事を紹介する。下記は『大垣宿問屋留書』の中の記事である。
