岐阜キリシタン小史(22)―『尾濃葉栗見聞集』のこと④―

前回疑問に思いつつも紙幅に余裕がなく、記せなかったことがある。『尾濃葉栗見聞集』が書かれたのは享和(1801)年である。信長が岐阜や安土で宣教師たちと謁見したのは1570年代のことであるから、『尾濃葉栗見聞集』が書かれる約230年前のことである。幕府のキリシタン禁教政策が続く中、民衆の間で230年前の宣教師たちの働きがずっと記憶され続けていたのだろうか。また、『尾濃葉栗見聞集』にはキリスト教伝来の年は正親町天皇の時代、永禄11(1568)年であると記されているが(「岐阜キリシタン小史(21)参照」)、そのことも記憶されていたのであろうか。興味深い。
さて、前回に続き、「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」について見ていきたい。


「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」続き

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岐阜キリシタン小史(21)―『尾濃葉栗見聞集』のこと③―

岐阜キリシタン小史(21)―『尾濃葉栗見聞集』のこと③―
前回につづき、『尾濃葉栗見聞集』「天上巻」にあるキリシタン関連の記録の三つ目である「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」について見ていきたい。
当時の宣教記録としてはルイス・フロイスの『日本史』が有名だが、それに対して『尾濃葉栗見聞集』は民衆側から見た記録であり、とても興味深い。作者の吉田正直は占術や加持祈祷を生業にしていた人物であっただけに、それに関わるような記述もある。
長い文章であるので、今回から数回に分けて扱い、前回同様に翻訳と現代語訳を記していく。現代語訳と註書は執筆者による。また、今回から段落の区切りも筆者が行う。


「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」

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岐阜キリシタン小史(20)―『尾濃葉栗見聞集』のこと②―

今回から何回かにわたり、『尾濃葉栗見聞集』のキリシタンに関係する箇所を翻訳し、現代訳を付してみたいと思う。同書のキリシタンに関わる箇所は「天上巻」(1934(昭和9)年発行の一信社版では「巻一」)に集中しており、翻訳と訳出はこの巻からのものに止めることとする。なお、現代語訳と註書は本文執筆者による。


大臼塚由來之事

濃州羽栗郡笠松の下に續て藤掛と三ッ屋との堺木曾川堤添ひに松の古木あり、里人呼て大臼塚といふ、切支丹輩斬罪せられし舊跡なり。古老の傳説に切支丹の者多く斬罪の節歴々の人もありし由、皆悅て討れけるよし、其中に鼠と化して樹木にのぼりしを鳶來て摑み去ると云ひ傳へたり。

(現代語訳)濃州羽栗郡笠松の近く、藤掛と三ツ屋の境界にある木曽川の堤防沿いには、松の古木が立っている。地元の人々はその場所を「(注)大臼塚」と呼んでいる。そこは、かつてキリシタンが処刑された跡地である。古老の言い伝えによると、キリシタンが多数処刑された際、名高い人々もそこに含まれていたという。彼らは皆、喜んで討たれたとのこと、その中には、鼠に化けて木に登った者がいたものの、(とび)がやってきて掴み去ったという話も伝えられている。 (注)大臼は「だいうす」で「デウス」に由来する。岐阜キリシタン小史(3)参照のこと。

岐阜キリシタン小史(19)―『尾濃葉栗見聞集』のこと①―

岐阜キリシタン小史(19)―『尾濃葉栗見聞集』のこと①―

数年前岐阜のキリシタンのことを調べている中で、岐阜県立図書館(の二階の書架)にて偶然に『尾濃葉栗見聞集』という書物を見つけた。以来この書物のことがずっと気になっていたが、時間に余裕がなくなかなか調べることができなかった。(「岐阜キリシタン小史(4)」で少しだけ触れた。)
最近、他にいくつかの資料が揃ったこともあり、何回かにわたってこの書物のことを記してみたい。

『尾濃葉栗見聞録』 天下巻・表紙
岐阜県図書館蔵
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岐阜キリシタン小史(17)―コンスタンチノのこと―

岐阜キリシタン小史(17)―コンスタンチノのこと―

美濃・尾張のキリシタンについて記すにあたり、コンスタンチノという人物のことを避けて通れない。しかし、残念ながら残されている史料はわずかしかない。

コンスタンチノについて調べるにあたり、参考にさせていただいた史料は二つある。ひとつは小生が今作成中の「岐阜キリシタン小史」の年表の基にさせていただいている『尾濃切支丹年表』森德一郎著(1935)。もうひとつは『尾張と美濃のキリシタン』横山住雄著(1978)である。どちらにもコンスタンチノに関する記述はわずかしかない。

まず、小生が作成した「岐阜キリシタン小史」の年表(すなわち森氏の『尾濃切支丹年表』になるが)、コンスタンチノについてに関連する箇所を抜き出す。

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岐阜キリシタン小史(16)―尾張の五聖人のこと③―

日本二十六聖人のことを書いているが、参考にしている『日本26聖人者物語』(ゲルハルト・フーバー著、アンジェロ・アショフ訳 聖母文庫)のまえがきの中に、次のように記されていた。「…さまざまな国の人を含んだこの集団は、言ってみれば、宣教に従事する人たちの国際協力団体のようであり、まさしくカトリック教会を代表していたといってよいでしょう」(アンジェルス・アショフ)。明治維新後や第二次大戦後の日本にたくさんの宣教師が来日した。同じことがこの時代にもあったのだと思わされた。 この本のなかに、26人の国籍や所属修道会、職務が簡潔に書かれているので、あわせて紹介したい。

国籍スペイン4名、メキシコ1名、ポルトガル1名、日本20名

所属修道会・職務

フランシスコ会6名(司祭3名、修道士3名)

在世フランシスコ会員と協力者17名(伝道士5名、伝道士見習2名、奉仕者7名、京都・大阪の修道院に住み込みの手伝いをしていた少年3名)

イエズス会修道士3名

尾張の五聖人について、ルドビコ茨木について前回までに随分紙幅を割いてしまった。他の4人について記してみたい。(下の肖像は『日本二十六聖人画像』岡山聖虚画。数字は、長崎・西坂の二十六聖人記念碑の右からの順番)

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岐阜キリシタン小史(15)―尾張の五聖人のこと②―

前回に続いてルドビコ茨木のことから始めたいと思う。

ルドビコ茨木[1585-1597.2.5]

 二十六聖人のひとりで、最も若い殉教者。尾張出身で「尾張の五聖人」のひとり。

 同じ殉教者のパウロ茨木とレオン烏丸は叔父にあたる。1596年京都のフランシスコ会の教会で受洗。教会とその付属の病院で手伝いをしていた。1596年12月9日、捕らえられ、長崎で殉教。12歳であった。

聖ルドビコ茨木像
(長崎・浦上天主堂)
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岐阜キリシタン小史(14)―尾張の五聖人のこと①―

ルドビコさまは 十二才

耳をそがれて しばられて

歩む千キロ 雪の道

ちいさい足あと 血がにじむ

これは「長崎の鐘」で有名な永井隆によるものである。ここに歌われているのが、二十六聖人の一人、ルドビコ茨木である。処刑されたとき、わずか12歳…。

1597年2月5日、長崎・西坂で、フランシスコ会の神父や日本人の信徒など26名が十字架につけられ、処刑された。時の権力者、太閤秀吉の命によるものある。この事件の背景は「岐阜キリシタン小史」(7)に記したので、参照していただきたい。その中の一人が、ルドビコ茨木であった。処刑された26人中では最も若かった。

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