岐阜キリシタン小史(10)年表
岐阜キリシタン小史(9)
岐阜キリシタン小史(8)
―秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令②―
前回に続き、引き続き禁教令について記してみたい。
⑥【江戸幕府】鎖国令(二港制限令)と禁教令 1619(元和5)年
二代将軍秀忠によるもの。キリシタンの投獄、処刑が徹底的に行われた。➡その後、日本に潜入しようとしていた宣教師2名が発見され、既に捕らえられていた宣教師やクリスチャン、匿っていた者たちの計55名が処刑された(元和の大殉教)。
⑦【江戸幕府】島原の乱後
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―秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令①―
今回と次回は岐阜のことから離れて、日本で出された、いわゆる「禁教令」について記してみたい。
私は以前より織田一族によって奨励されたキリスト教が、今の日本でなぜ疎んじられているのかずっと疑問に思ってきた。キリスト教は秀吉や江戸幕府によって禁教の扱いを受け、厳しい弾圧を受けた。そのことよってキリスト教に対する潜在的な忌避感が日本人に生まれた。日本にキリスト教が根づかない大きな要因はそこにあるのでいないか。
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―美濃初めてのキリシタン・山田庄左衛門―
筆者はこの連載を思いつくままに書いているため、順序が必ずしも時代順になっていないことをお許しいただきたい。今回は信長が岐阜に入城する(1567(永禄)10年)以前のことになる。
土岐頼芸(よりなり)(1502~1582)という人物がいた。頼芸は土岐氏の当主であった兄頼武(よりたけ)とその子頼充(よりみつ)と対立し、美濃国や周辺国を騒乱に巻き込んだ末、土岐氏当主となり美濃守護となった。そのことに功があったのが、斎藤道三であった。しかし、頼芸はその道三によって美濃国から追放されてしまう。さらにその道三もその子義龍に殺された。義龍は道三の子ではなく頼芸の子だというのが、父子対立の原因であり、義龍自身も土岐氏の後胤と広言していた。(司馬遼太郎『国盗り物語』、NHK大河ドラマの「麒麟がいく」でも紹介されていた。)