岐阜キリシタン小史(14)―尾張の五聖人のこと①―

ルドビコさまは 十二才

耳をそがれて しばられて

歩む千キロ 雪の道

ちいさい足あと 血がにじむ

これは「長崎の鐘」で有名な永井隆によるものである。ここに歌われているのが、二十六聖人の一人、ルドビコ茨木である。処刑されたとき、わずか12歳…。

1597年2月5日、長崎・西坂で、フランシスコ会の神父や日本人の信徒など26名が十字架につけられ、処刑された。時の権力者、太閤秀吉の命によるものある。この事件の背景は「岐阜キリシタン小史」(7)に記したので、参照していただきたい。その中の一人が、ルドビコ茨木であった。処刑された26人中では最も若かった。

二十六聖人の中に何人か子どもがいたということは聞いたことがあったが、その子どもたちの一人が尾張の出身であると知り居ても立っても居られず、ルドビコ茨木のこと、そして二十六聖人のことを調べたてみたくなった。というわけで、今回を含めしばらく岐阜のキリシタンの話題から離れる。

26人の中には、ルドビコ以外にも4人が尾張の出身者がいた。ルドビコ茨木、パウロ鈴木、レオン烏丸、コスメ竹屋、パウロ茨木の五人が「尾張の五聖人」といわれる。この五人の中で、ルドビコ茨木の叔父がレオン烏丸、そしてレオン烏丸の兄がパウロ茨木という関係である。

もともと尾張はキリスト教信仰が盛んなところであり、コンスタンチノという日本人伝道師が花正(現愛知県あま市花正)で、1566年にはすでに福音宣教の活動していた(「岐阜キリシタン史(9)」(年表)参照)。このコンスタンチノのことも調べてみたいのだが、残念ながら残された資料は少ない。年若かったルドビコ茨木以外の誰かはこのコンスタンチノと何らかの関係があったのかもしれない。

上の写真は長崎・西坂の二十六聖人の碑である。画像が誠に悪いがお許しいただきたい。ルドビコ茨木は子どもで背が低い。ルドビコ茨木の左はアントニオ長崎で13歳。またレオン烏丸の左二人目がトマス小崎で14歳。26人のうち、三人はまだ子どもであった(名前は筆者が加えたもの、赤字は尾張五聖人、黄色網は子ども)。

 当時ルドビコ茨木は京都のフランシスコ会修道院で侍者として仕えていた。司祭たちが捕らえられたとき、彼は年少者ということで除外されたが、自ら進んで捕縛されたいと願い出た。また、捕らえられた京都から長崎に向かう途中、*注寺沢半三郎という役人が「お前のいのちは今私の手中にある。信仰を捨てればいのちを助けてやる」と言ったところ、「直ぐ終わってしまういのちと、永遠のいのちを取り替えるのは意味のないことです」と答えた。そのときルドビコは微笑んでいたと言う。(*寺沢半三郎:当時の長崎奉行寺沢広高の弟。広高は当時秀吉の朝鮮出兵のために肥前に名護屋にいたため弟の半三郎が長崎奉行の代行者になっていた。広高は殉教者のひとりであるパウロ三木から受洗していた。半三郎自身もパウロ三木を知っており尊敬していた。)

殉教の地・長崎へ到着。西坂の丘には二十六本の十字架が立てられていた。十字架には一本ごとに名前が記されていたが、ルドビコは自分の十字架はどこにあるかと尋ね、その十字架をかき抱いたという。槍に衝かれた瞬間、天を仰いで「パライソ、パライソ(天国、天国)」と叫んで息絶えた。

二十六聖人の殉教者たちは、1862(文久元)年10月8日、教皇ピオ9世によって列聖された。

(この小史を書くにあたり、以下の書籍を参考にさせていただいた。『二十六聖人殉教記』(L・フロイス著 結城了悟訳)、『日本人26聖人物語』(G・フーバー著 A・アショフ役)、『二十六聖人と長崎物語』(結城了悟著)、いずれも「聖母の騎士社」の「聖母文庫」。)

文:笠松キリスト教会 K

岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―

岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―

 日本各地にはキリシタンの殉教の地、遺跡が数多くある。いったいどれくらいあるのだろうと、ネットで調べたことがあったが、とても数えきれなかった。殉教で記憶に残るのが、映画『沈黙』(遠藤周作原作)の中で、キリシタンが「雲仙地獄の熱湯漬け」や「水磔(すいたく)」の刑を受けるシーンであった。残酷な処刑方法でとても見ていられなかったことを思い出す。

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岐阜キリシタン小史(8)

 秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令②―

 前回に続き、引き続き禁教令について記してみたい。

⑥【江戸幕府】鎖国令(二港制限令)と禁教令 1619(元和5)年

 二代将軍秀忠によるもの。キリシタンの投獄、処刑が徹底的に行われた。➡その後、日本に潜入しようとしていた宣教師2名が発見され、既に捕らえられていた宣教師やクリスチャン、匿っていた者たちの計55名が処刑された(元和の大殉教)。

⑦【江戸幕府】島原の乱後

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岐阜キリシタン小史(7)

 秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令①

 今回と次回は岐阜のことから離れて、日本で出された、いわゆる「禁教令」について記してみたい。

 私は以前より織田一族によって奨励されたキリスト教が、今の日本でなぜ疎んじられているのかずっと疑問に思ってきた。キリスト教は秀吉や江戸幕府によって禁教の扱いを受け、厳しい弾圧を受けた。そのことよってキリスト教に対する潜在的な忌避感が日本人に生まれた。日本にキリスト教が根づかない大きな要因はそこにあるのでいないか。

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岐阜キリシタン小史(6)

 ―美濃初めてのキリシタン・山田庄左衛門―

 筆者はこの連載を思いつくままに書いているため、順序が必ずしも時代順になっていないことをお許しいただきたい。今回は信長が岐阜に入城する(1567(永禄)10年)以前のことになる。
 土岐頼芸(よりなり)(1502~1582)という人物がいた。頼芸は土岐氏の当主であった兄頼武(よりたけ)とその子頼充(よりみつ)と対立し、美濃国や周辺国を騒乱に巻き込んだ末、土岐氏当主となり美濃守護となった。そのことに功があったのが、斎藤道三であった。しかし、頼芸はその道三によって美濃国から追放されてしまう。さらにその道三もその子義龍に殺された。義龍は道三の子ではなく頼芸の子だというのが、父子対立の原因であり、義龍自身も土岐氏の後胤と広言していた。(司馬遼太郎『国盗り物語』、NHK大河ドラマの「麒麟がいく」でも紹介されていた。)

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