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岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―
岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―
日本各地にはキリシタンの殉教の地、遺跡が数多くある。いったいどれくらいあるのだろうと、ネットで調べたことがあったが、とても数えきれなかった。殉教で記憶に残るのが、映画『沈黙』(遠藤周作原作)の中で、キリシタンが「雲仙地獄の熱湯漬け」や「水磔」の刑を受けるシーンであった。残酷な処刑方法でとても見ていられなかったことを思い出す。
“岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―” の続きを読む岐阜キリシタン小史(11)年表 本能寺の変~江戸時代①
岐阜キリシタン小史(10)年表
岐阜キリシタン小史(9)
岐阜キリシタン小史(8)
―秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令②―
前回に続き、引き続き禁教令について記してみたい。
⑥【江戸幕府】鎖国令(二港制限令)と禁教令 1619(元和5)年
二代将軍秀忠によるもの。キリシタンの投獄、処刑が徹底的に行われた。➡その後、日本に潜入しようとしていた宣教師2名が発見され、既に捕らえられていた宣教師やクリスチャン、匿っていた者たちの計55名が処刑された(元和の大殉教)。
⑦【江戸幕府】島原の乱後
“岐阜キリシタン小史(8)” の続きを読む岐阜キリシタン小史(7)
―秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令①―
今回と次回は岐阜のことから離れて、日本で出された、いわゆる「禁教令」について記してみたい。
私は以前より織田一族によって奨励されたキリスト教が、今の日本でなぜ疎んじられているのかずっと疑問に思ってきた。キリスト教は秀吉や江戸幕府によって禁教の扱いを受け、厳しい弾圧を受けた。そのことよってキリスト教に対する潜在的な忌避感が日本人に生まれた。日本にキリスト教が根づかない大きな要因はそこにあるのでいないか。
“岐阜キリシタン小史(7)” の続きを読む岐阜キリシタン小史(6)
―美濃初めてのキリシタン・山田庄左衛門―
筆者はこの連載を思いつくままに書いているため、順序が必ずしも時代順になっていないことをお許しいただきたい。今回は信長が岐阜に入城する(1567(永禄)10年)以前のことになる。
土岐頼芸(よりなり)(1502~1582)という人物がいた。頼芸は土岐氏の当主であった兄頼武(よりたけ)とその子頼充(よりみつ)と対立し、美濃国や周辺国を騒乱に巻き込んだ末、土岐氏当主となり美濃守護となった。そのことに功があったのが、斎藤道三であった。しかし、頼芸はその道三によって美濃国から追放されてしまう。さらにその道三もその子義龍に殺された。義龍は道三の子ではなく頼芸の子だというのが、父子対立の原因であり、義龍自身も土岐氏の後胤と広言していた。(司馬遼太郎『国盗り物語』、NHK大河ドラマの「麒麟がいく」でも紹介されていた。)
岐阜キリシタン小史(5)
―笠松町ゆかりの史跡、遺物―
今回は笠松キリスト教会がある、岐阜県笠松町にゆかりの史跡や遺跡・遺物を紹介したい。まず、織田秀信である。この秀信について、今一度記したいと思う。
秀信(1580-1605)は、信長の長男である信忠の長男として生まれた。信長の孫にあたる。幼名を三法師といい、1582(天正10)年、本能寺の変後の清須会議で織田家の後継者に選ばれた。1584(天正12)年、豊臣秀吉によって岐阜に封ぜられ、秀信と命名された。
“岐阜キリシタン小史(5)” の続きを読む岐阜キリシタン小史(4)
―御嵩町「中山道みたけ館」を訪ねて―
可児郡御嵩町(可児市北東)は、江戸時代には中山道の宿場町として栄えたことで知られているが、それ以外にも白鳳期に創建されたという願興寺という古刹や、平安時代の歌人和泉式部のゆかりの地としても知られ、歴史好きには魅力的な町である。
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