文:笠松キリスト教会 K
岐阜キリシタン小史(17)―コンスタンチノのこと―
岐阜キリシタン小史(17)―コンスタンチノのこと―
美濃・尾張のキリシタンについて記すにあたり、コンスタンチノという人物のことを避けて通れない。しかし、残念ながら残されている史料はわずかしかない。
コンスタンチノについて調べるにあたり、参考にさせていただいた史料は二つある。ひとつは小生が今作成中の「岐阜キリシタン小史」の年表の基にさせていただいている『尾濃切支丹年表』森德一郎著(1935)。もうひとつは『尾張と美濃のキリシタン』横山住雄著(1978)である。どちらにもコンスタンチノに関する記述はわずかしかない。
まず、小生が作成した「岐阜キリシタン小史」の年表(すなわち森氏の『尾濃切支丹年表』になるが)、コンスタンチノについてに関連する箇所を抜き出す。
“岐阜キリシタン小史(17)―コンスタンチノのこと―” の続きを読む岐阜キリシタン小史(16)―尾張の五聖人のこと③―
日本二十六聖人のことを書いているが、参考にしている『日本26聖人者物語』(ゲルハルト・フーバー著、アンジェロ・アショフ訳 聖母文庫)のまえがきの中に、次のように記されていた。「…さまざまな国の人を含んだこの集団は、言ってみれば、宣教に従事する人たちの国際協力団体のようであり、まさしくカトリック教会を代表していたといってよいでしょう」(アンジェルス・アショフ)。明治維新後や第二次大戦後の日本にたくさんの宣教師が来日した。同じことがこの時代にもあったのだと思わされた。 この本のなかに、26人の国籍や所属修道会、職務が簡潔に書かれているので、あわせて紹介したい。
国籍…スペイン4名、メキシコ1名、ポルトガル1名、日本20名
所属修道会・職務
・フランシスコ会6名(司祭3名、修道士3名)
・在世フランシスコ会員と協力者17名(伝道士5名、伝道士見習2名、奉仕者7名、京都・大阪の修道院に住み込みの手伝いをしていた少年3名)
・イエズス会修道士3名
尾張の五聖人について、ルドビコ茨木について前回までに随分紙幅を割いてしまった。他の4人について記してみたい。(下の肖像は『日本二十六聖人画像』岡山聖虚画。数字は、長崎・西坂の二十六聖人記念碑の右からの順番)
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前回に続いてルドビコ茨木のことから始めたいと思う。
ルドビコ茨木[1585-1597.2.5]
二十六聖人のひとりで、最も若い殉教者。尾張出身で「尾張の五聖人」のひとり。
同じ殉教者のパウロ茨木とレオン烏丸は叔父にあたる。1596年京都のフランシスコ会の教会で受洗。教会とその付属の病院で手伝いをしていた。1596年12月9日、捕らえられ、長崎で殉教。12歳であった。

(長崎・浦上天主堂)
岐阜キリシタン小史(14)―尾張の五聖人のこと①―
ルドビコさまは 十二才
耳をそがれて しばられて
歩む千キロ 雪の道
ちいさい足あと 血がにじむ
これは「長崎の鐘」で有名な永井隆によるものである。ここに歌われているのが、二十六聖人の一人、ルドビコ茨木である。処刑されたとき、わずか12歳…。
1597年2月5日、長崎・西坂で、フランシスコ会の神父や日本人の信徒など26名が十字架につけられ、処刑された。時の権力者、太閤秀吉の命によるものある。この事件の背景は「岐阜キリシタン小史」(7)に記したので、参照していただきたい。その中の一人が、ルドビコ茨木であった。処刑された26人中では最も若かった。
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岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―
岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―
日本各地にはキリシタンの殉教の地、遺跡が数多くある。いったいどれくらいあるのだろうと、ネットで調べたことがあったが、とても数えきれなかった。殉教で記憶に残るのが、映画『沈黙』(遠藤周作原作)の中で、キリシタンが「雲仙地獄の熱湯漬け」や「水磔」の刑を受けるシーンであった。残酷な処刑方法でとても見ていられなかったことを思い出す。
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