岐阜キリシタン小史(31)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑬―

再び前回から続き、「御定」のことである。そして13回続いた『尾濃葉栗見聞集』についての最終回である。


一筆申入候、今度吉利支丹宗宗門急度御改に付各自分之宗旨竝組同心支配旁其外召仕之者百姓等迄穿鑿之趣拙者共方へ(注1)一札可指出旨御意候、依之一札之案文兩通別紙指趣候閒來月十五日迄の內に可被指出候。
頭有之衆は其頭迄、支配人有之衆は支配人之方へ右之一札被指出、頭支配人之方へ一札取置被申其旨拙者共方へ以支配人之手形可被指越候、勿論頭無之衆は拙者共方へ直に一札可被相越候。
自今以後組同心支配有之衆御役替候はゞ其時之組同心支配之方より右之通一札取置被申其度に拙者共方へ頭支配人に手形を可被指出候、將又今度頭支配人之方へ一札指出被申衆頭支配人無之御役に被罷成候はゞ其節拙者共方へ一札指出可被申候、右之趣組同心支配之面々へ可被申聞候。
(注2)御直衆より(注3)同心衆迄は今度斗にて每年一札に及可申候、倂(注4)三十人衆より以下之輩は每年兩度つゝ寺手形共取置可被申候。
自今以後組同心支配之內へ新規に入候者有之衆は不及申頭支配人之方へ一札取置被申是又其趣拙者共方へ頭支配人之手形を可被相渡候、恐々謹言
                              寛文五年巳二月二十二日
                           御登箇所 (注5)山内治太夫 在判
                              (注6)横井十郎左衛門 在判

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岐阜キリシタン小史(30)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑫―

今回は前回からの「御定」の続きである。


一、此已前吉利支丹にてころび有之者候はゞ何年已前にころび申との儀、又は先祖の内に右の宗門有之者は其身類門にて無之候とも委細遂穿鑿申遣候様に可仕、外より指候はゞ申分難計越度と可成事。
一、近年露顕の吉利支丹、或は御赦免は斬罪或は牢死或は牢舎にて罷在者の妻子、下人類門にて無之候共委細遂穿鑿申遣候様可仕候、人数すくなき村々は書付にて可指出事。
一、右宗門近年軽き者は雖未露顕此等も弘而幾里支丹は不尽候、すゝめをも致候程の者は深く隠有之、並書物本尊抔をも隠置候者可有之候間入精遂穿鑿候様にと急度可申付事。
附宗門訴人之輩は此已前より御意之通り御褒美可被下従公儀被仰出候事。
右之條改御家中並御領分中様被仰出候間、町人百姓は五人組を定め町年寄庄屋無油断改之、面々召仕之者に至迄堅遂穿鑿、不審成者於有之は頭有之輩は其頭迄早速相達、其頭(注1)横井十郎左衛門、(注2)山内治太夫へ可申届、頭無之輩は右両人之所迄可申届事。
以 上
寛文五年巳正月晦日
一筆啓入候、吉利支丹宗門相改手形取候儀、面々召仕之女共之儀、每年三月、九月出替り候儀に候閒三月中、九月中に手形取置可申候、若出替之以後召抱候衆は不依何時召抱候其時分に手形取り可被申候、將又最前相觸候御書面に召仕之者之儀二月中旬、十一月中旬に手形取被申樣にとの儀候得共被相抱候儀遲滯も可有之閒每歲二月中、十一月中兩度宛手形取置可被申候、若又出替己後被相抱候衆は不依何時其時之手形取置可被申候、右之旨相觸候樣にと重而被仰出候閒如此御座候、恐惶謹言。
寬文五年巳二月四日


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岐阜キリシタン小史(28)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑩―

最初に「切支丹」という音訳が使われた経緯について触れる。


吉利支丹を切支丹と御改之事
(注)栁営秘鑑曰、古来は吉利支丹と書き來る所、公方綱吉公の吉の字を憚て切支丹と改之者也。



(現代語訳) 「吉利支丹」から「切支丹」に改めることについて
「栁営秘鑑」には、古くは「吉利支丹」と書かれていたものが、公方徳川綱吉公の名である「吉」の字を避けるため、「切支丹」と改められた。
(注)「栁営」とは将軍家のこと。『栁営秘鑑』は、江戸幕府の年中行事や格式、故実、旧例、武家の法規などを詳細に記した書物(例えば三つ葉葵の由来など)。著者は幕臣の菊池弥門で、寛保3(1743)年に成立したとされる。全10巻。
※『尾濃葉栗見聞集』では、キリシタンを、「吉利支丹」、「切支丹」、「幾里支丹」と表記されており、作者吉田正直はこのことについてあまり意識していなかったようである。

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岐阜キリシタン小史(27)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑨―

  今回は前回の「切支丹の者斬罪之事」の続きである。前段は岐阜キリシタン小史(12)でも触れており、ご参照いただきたい。


(注1)尾張名所記云、(注2)名古屋橘町(注3)大佛榮國寺は國中の罪を犯せし者をいましむる獄門場なり、去る寬文五年三月此所に寺をいとなみ、淸涼庵と號し佛を安置し、千日念佛をはじむ。(注4)海邦名勝記云、慶長年中御城を築せ給ふ後千年の松原とて屠所なりしが、寬文の頃町屋に成て屠所は今(注5)土器野へ引移りぬ、耶蘇宗門等の徒專任餘人誅せられし跡とて一宇御建立あり、淸涼庵を(注6)中比瑞雲寺榮國寺と號す云々。

或書曰、家康公耶蘇宗御制禁、其砌は元和年中肥前國より駿河國へ罷越言上、(注7)吉利支丹之談義などは人を導き、其上に貧人には金銀を得させ、南蠻國の宗旨を弘め、後には國を奪ふ事加藤淸正きびしく御糺有之、後(注8)京都所司代板倉伊賀守工夫にて伴天連の一類の者二重俵に入て五ヶ所からげにして三條、四條、五條河原にさんづみにしければ、洛中見物人群集す、其一生合の者共一所につみかさなる、罪人(注9)善主麿を何程唱へても一味の飮食も天よりふらず地よりも湧ざれば、其日の未申の刻に到て皆宗門を轉びけり、此時より寺一札初りける、此節宗旨を改めざる輩は皆京、大坂、堺並諸國においても不殘斬罪にあふ者擧て數ふるにいとまあらずと。予按に(注10)美濃の大臼塚、(注11)尾張の大佛淸涼庵の昔物語も此砌の事にこそあらめ。

後附或日記云、元祿十丁丑年濃州可兒郡鹽方村百姓切支丹之者共御吟味の上笠松にて御仕置有之、此節(注12)大宇須の餘類丗五六人木曾川通り笠松の下、爰に埋てしるしの塚也。今尙大宇須塚とてしるしの塚に松あり。


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岐阜キリシタン小史(26)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑧―

 しばらく続いた「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」が終わり、次の項に移る。今回は「切支丹宗門證文之事」と「切支丹の者斬罪之事」についてであるが、後者は次回以降も続く。


切支丹宗門證文之事

正事記曰、寛文元辛丑七月より切支丹宗門證文下々に至る迄取る事定り、海保彌兵衞其後松平三太夫に被仰付候、其後橫井十郞左衞門、山內治太夫寺社奉行に相成、紀伊國の寺手形の文段にて村人の起請文認め、其文言に切支丹のいやがる事有之、切支丹なれど則相分るよし。

正事記曰、寛文五巳正月晦日命令有之切支丹宗門帳一札及每年二月、十一月兩度相改之處に、今年より每歳二度二月、三月可相改旨被仰出候、寛文七丁未年切支丹宗門之族被斬罪故に御家中之輩へ拝領掾物云云。


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岐阜キリシタン小史(25)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑦―

 今回で「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の箇所を終わる。今回の箇所に濃州塩村のキリシタン捕縛の記述がある。


其後二十四年を過て慶長十三丁未年(注1)肥前宇土郡八代には(注2)波伊耶牟が弟子有之耶蘇宗を弘め、其後宇土郡府内村寶光寺と云ふ禪刹を打破り宗門を弘む。此寺の住持信藏主東武へ下て訴へければ、御吟味の上御仕置あり、靜謐に及びけり。

其後十九年經て寬永三年の比、六十六部の類近江國徘徊して弘むる、是も程なく御仕置あり。

此時の御仕置は類門を一人づつ俵に入て首斗出して三十俵、五十俵つゝ積重ね、京都三條河原、大坂御城の馬場、堺七道の濱、此三ヶ所にて燒殺し、其內に宗門を改むる者は命助かりけり。何宗門と成て初て當寺旦那に紛なき印形差出す事初りぬ。

其後寬永十四年十月より肥前國島原と云ふ所に切支丹の一揆起て、天草四郞時貞を大將として合戰あり。翌年二月二十八日一揆の奴原三萬七千餘人誅戮有之、國々波立ず泰平の御代と治りけるこそ目出度けれ。委は天草軍記にしるす故に爰にもらしぬ。

(注3)正吏記曰、萬治四辛丑年四月朔日御旗本西尾權左衞門知行所濃州帷子庄鹽村に切支丹宗門の者共有之、尾張樣へ御賴有之、御奉行渡邊新左衞門、御足輕大將田邊四郞右衞門、御代官勝野太郞左衞門、御目付鳥居傳右衞門其外御目付兩人、手代捕手の者數十人被仰付名古屋を出て直に彼地に至り、切支丹の者一人も殘らず二十四人搦取、四日夜に連來る、又犬山の下五郞丸と云ふ所に伴天連一人有之、成瀨信濃守より搦取る、十人二十人所々より搦取來る者幾十人か不知、切支丹改有之悉御退治あり。


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岐阜キリシタン小史(24)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑥―

今回も「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の続きであるが、今回取り上げる箇所は、史実と大きく異なることを先に記しておいた方がいいと思う。
本文中にある、1.信長がキリスト教を広めさせてしまったことを後悔した、2.信忠が、信長がキリスト教に寛容であったことに対して諫言した、3.秀吉が増田長盛と長束正家に命じて南蛮寺を破却させた、4.宣教師ヴァリニャーノが肥前に逃亡した、これらはいずれも歴史的事実に反する。
ということで今回の内容は、作者吉田正直が故意にキリスト教を貶めようという意図があるのではないかと思いたくなる。しかし、前回の耶蘇教に入信する様子の記述と同様に、当時の民衆がキリスト教をどのようにとらえていたかということでは興味深い。我慢してお付き合い願いたい。


天正三年五月十一日信長公京都を立玉ひて十三日に岐阜に到着し玉ふ。先年伴天連來りし時、(注1)文教院の諫を不用して耶蘇宗を思ひのまゝに弘めさせ今後悔なり。此儘にさし置きなば一天下難儀なる故に、南蠻寺を滅亡の沙汰に及びぬ。其節(注2)徳善院進み出て、國中耶蘇に歸依のモノ多し、南蠻寺を滅亡に及びなば門徒蜂起する事覺束なしと云ひ難し。依之滅亡の事止みぬ。然處信長公亡び給ふ故に、猶耶蘇宗流行に及びぬ。
然處太閤秀吉公自曰、(注3)增田右衛門尉、(注4)長束大藏兩人へ被仰付天正十三乙酉迄(注5)十八年の間耶蘇宗流行す。增田長束三千餘騎引率南蠻寺へ亂入、二人の伴天連、二人の(注6)伊留摩牟を召捕て網乗物に入る間に門徒不殘散々に逃失けり、二時斗に滅亡せり。生捕四人の者は本國へぞ歸しける、門徒の内改宗の者は其分に差置き、歸伏せざる者は不殘磔に行はれけり。扨南蠻寺執行(注7)波伊耶牟は先達而寺を逃げ肥前國に下り密に身を隱し居たりしが、年を經て天草に來て、重て此宗門を弘めけるよし。


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岐阜キリシタン小史(23)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑤―

岐阜キリシタン小史(19)で、作者吉田正直のことについて少しだけ触れた。昭和7(1932)年に当時岐阜市笹土井町あった一信社出版部から出版された『尾濃葉栗見聞集』に詳しく書かれているのを見つけたので、あらためて記す。


吉田正直

初名彌太郎、後儀平治、または平蔵といった。元文5(1740)年に現在の岐阜県羽島郡岐南町徳田に生まれた。30歳のころ正直と改め、一成を通名とし、本姓を正村、吉田を通姓とした。かつて父の命によって、濃州加納藩士である吉田家に養子として迎えられたことがあった。また、先祖は舟岡山の戦い(筆者注:室町幕府管領細川政元の後継者争いに関わる戦い)で敗れた浪人で、「吉田一直」と名乗っていたため、これを家の姓として受け継いだのであろうか。明和4(1767)年、28歳の時、百姓をやめて、名古屋の流川町(現在の名古屋市中区新栄)あたりに住み、占いや加持祈祷を行って生活していた。文化4(1807)年に68歳で他界した。


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岐阜キリシタン小史(22)―『尾濃葉栗見聞集』のこと④―

前回疑問に思いつつも紙幅に余裕がなく、記せなかったことがある。『尾濃葉栗見聞集』が書かれたのは享和(1801)年である。信長が岐阜や安土で宣教師たちと謁見したのは1570年代のことであるから、『尾濃葉栗見聞集』が書かれる約230年前のことである。幕府のキリシタン禁教政策が続く中、民衆の間で230年前の宣教師たちの働きがずっと記憶され続けていたのだろうか。また、『尾濃葉栗見聞集』にはキリスト教伝来の年は正親町天皇の時代、永禄11(1568)年であると記されているが(「岐阜キリシタン小史(21)参照」)、そのことも記憶されていたのであろうか。興味深い。
さて、前回に続き、「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」について見ていきたい。


「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」続き

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