岐阜キリシタン小史(59)―織田兄弟・秀信と秀則 分かれた運命―

 1581(天正9)年、織田信忠の次男として誕生した織田秀則は、兄の秀信より2歳年少であった。兄同様に、1582(天正10)年の本能寺の変により祖父・信長と父・信忠を同時に失ったとき、彼はわずか1歳であった。その後の清洲会議において3歳で織田家の家督を継いだ兄・秀信とは異なり、次男である秀則は、家督を背負う兄を支え、一族の血脈を守る補佐役としての道を歩むこととなった。
 秀則の資質を物語る記録が、宣教師ルイス・フロイスの日記に残されている。フロイスは秀則を「素性を知らずに話せば、その品格からドイツの貴族と判断してしまう」と記した。この評は、彼が武将としての勇猛さだけでなく、当時の支配層に求められた洗練された教養と立ち居振る舞いを、若くして身につけていたことを示しているのではないだろうか。秀信が織田家の家督継承者として周囲から強い制約を受けていたのに対し、秀則は一族の実務を担いつつも、制約を受けることは兄ほどではなかった。

京都・妙心寺塔頭 桂春院 ここのお庭はすばらしい!!
(作庭は後の小堀遠州の弟子による)
“岐阜キリシタン小史(59)―織田兄弟・秀信と秀則 分かれた運命―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(58)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(3)―

1600(慶長5)年、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、秀信は石田三成らの誘いを受け西軍に加わった。これに対し、徳川家康率いる東軍は岐阜城攻略を目指し、木曽川を渡り美濃へと侵攻した。この前哨戦となったのが、現在の岐阜県笠松町で行われた「米野の戦い」である。秀信は自ら軍を率いて米野
の堤防に陣を張り、木曽川を渡河しようとする福島正則や池田輝政らの軍勢を迎え撃った。激しい戦いが繰り広げられたが、数に勝る東軍の猛攻の前に秀信軍は敗走し、岐阜城へと退却を余儀なくされた。この敗北は岐阜城陥落の決定打となり、秀信は改易(領地没収)の憂き目に遭うこととなった。

①米野の戦い地図
②米野の戦いの碑
③笠松町歴史未来館未来館にある「合戦の陶板」
“岐阜キリシタン小史(58)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(3)―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(57)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(2)―

 岐阜中納言となった秀信は、祖父・信長が築いた岐阜の町をさらに発展させるべく、内政にも力を注いだ。彼は楽市楽座の精神を引き継ぎ、商人の活動を保護するとともに、城下の道筋を整えるなどの整備を行った。特に金華山の麓から長良川に至る区域の整備や、寺社への寄進、検地の実施などを通じて、領国経営の基盤を固めていった。城下には宣教師を招き入れるための居住区も設けられ、軍事拠点としての岐阜城は、信仰と文化が交差する都市へと変貌していった。
 しかし、当時の豊臣政権下における秀信の立場は、極めて微妙なものであった。秀吉という巨大な勢力の陰に隠れ、織田家という過去の遺産を背負わされた彼は、常に周囲の期待と警戒の目にさらされていたであろう。そのような状況下で、彼が心の拠り所を求めたのは、力による支配が全てであった戦国大名の価値観ではなく、キリスト教の教えであった。

信長時代の岐阜城図
“岐阜キリシタン小史(57)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(2)―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(56)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(1)―

 織田秀信という名は、歴史の教科書では「三法師」という幼名で、あるいは関ヶ原の戦いにおける敗軍の将として、わずかに触れられるに過ぎない。しかし、その生涯を辿れば、戦国時代の終焉という激動のなかで、信長の正統なる後継者という重責と、キリスト教という新たな価値観の間で葛藤し続けた姿が見えてくる。

織田秀信(1580~1605)
“岐阜キリシタン小史(56)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(1)―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(55)―織田信忠と岐阜のキリスト教―

 これまで織田信長とキリスト教、そしてイエズス会宣教師との関わりについて詳しく述べてきた。今回は、信長の嫡男であり後継者である織田信忠と、キリスト教との関わりについて記していきたい。
 織田信忠は、1557(弘治3)年、織田信長の長男(嫡男)として尾張国に生まれた。幼名は奇妙丸である。1572(元亀3)年、近江国での対浅井氏戦で初陣を飾り、その後は伊勢長島平定や長篠の戦いなど、信長が進める主要な戦役に従軍して軍功を重ねた。1575(天正3)年、19歳の時に信長から織田家の家督を譲られ、同時に美濃・尾張の両国を相続して岐阜城主となった。翌1576(天正4)年には従三位左近衛中将に叙任され、名実ともに織田政権の後継者としての地位を確立した。
 信長が安土城へ移った後、信忠は岐阜を拠点として東国方面の軍事・内政を一手に担い、1582(天正10)年の甲州征伐では総大将として武田氏を滅亡させるなど、優れた指揮能力を発揮した。信忠の統治は理知的かつ着実であり、父・信長の革新性を引き継ぎつつも、家臣団や領民に対しては節度ある態度で臨んだ。岐阜におけるキリスト教や宣教師への対応も、こうした彼の冷静な統治姿勢の一環として捉えることができるだろう。
 織田信忠とキリスト教、そして岐阜の地を巡る関わりは、父・信長の影に隠れがちである。しかし当時の宣教師の記録やイエズス会年報を紐解くと、そこには若き城主としての節度ある振る舞いと、異文化に対する比較的冷静な態度が浮かび上がってくる。

織田信忠 像
“岐阜キリシタン小史(55)―織田信忠と岐阜のキリスト教―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(54)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑭―

織田信長に最も信頼された宣教師・オルガンティノ(3)

 オルガンティノの生涯は、織田家三代との深い関わりの中にあった。父・信長の後を継いだ信忠とも親交を結んでいたが、信忠の嫡男である秀信(三法師)に対しては、その人生の節目において大きな役割を果たした。1595(文禄5)年、秀信はオルガンティノの熱心な導きによって洗礼を受け、受洗名を「ペトロ」とした。これには弟の秀則も同行し、兄弟そろっての受洗であったとされる。この出来事は、かつてキリスト教を庇護した信長の嫡孫がキリシタンとなった点において、オルガンティノ個人にとっても、また日本におけるイエズス会にとっても、大きな象徴的意味があった。秀信は岐阜城下での布教を公認し、教会の建設を許可するなど、オルガンティノを精神的師として厚く遇した。(秀信のことは、機会を改めて書いてみたいと思っている。)

“岐阜キリシタン小史(54)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑭―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(53)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑬―

織田信長に最も信頼された宣教師・オルガンティノ(2)

 1582(天正10)年6月21日(旧暦6月2日)、オルガンティノは日本史上の大事件である「本能寺の変」を、至近距離で目撃することとなった。当日払暁、京都の南蛮寺にいた彼は、激しい銃声と本能寺方面から立ち上る激しい炎に驚き、寺の屋根からその様子を凝視した。当初は信長による軍事訓練かとも考えたが、やがて明智光秀の謀反であることを知る。彼は報告書(オルガンティノが1582年に書いた『1582年度日本年報』または、同年のイエズス会総長宛の報告書)に記されている。この中で、信長が敵の手にかかって辱めを受けることを拒み、自ら火を放って最期を遂げた様子を記している。また、二条新御所にいた嫡男信忠についても、父の危急を知りながらももはや救援不可能と悟り、奮戦の末に自害した経過を詳述した。この未曾有の事態に際し、オルガンティノは死を覚悟して祈りを捧げつつ、変後の混乱に包まれた京都の情勢を克明に記録したのである。(この記録はのちにフロイスの『日本史』に取り込まれた。)

“岐阜キリシタン小史(53)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑬―” の続きを読む

岐阜キリシタン小史(52)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑫―

織田信長に最も信頼された宣教師・オルガンティノ(1)

 岐阜を訪れたイエズス会宣教師としてフロイス、カブラルを、そして修道士としてロレンソについて、記してきた。今回から数回にわたり、四人目の人物であるオルガンティノのことを書いてみたい。
 グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、16世紀後半の日本において、織田信長という戦国の風雲児の信頼を勝ち取った稀有な人物である。1533(天文2)年、北イタリアのカストという町で生を受けた彼は、1570(元亀元)年にイエズス会宣教師として日本に渡り、長崎に上陸した。その後、畿内布教の機会を得て、当時の政治的中枢であった岐阜へと赴き、織田信長との謁見を果たす。1570年6月、フロイスがロレンソ了斎らとともに岐阜へ赴く際にオルガンティノが同行した形だ。この出会いこそが、彼自身の運命のみならず、日本におけるキリスト教布教の行方を大きく左右する転機となっていく。

カストの街並み カストはミラノの東、約90㎞。古代より製鉄を営んだ村であり、
中世のカストは鍛冶で広く知られた。
“岐阜キリシタン小史(52)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑫―” の続きを読む