聖書箇所:ルカの福音書1章8-20節
小林剛男牧師


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聖書箇所:ルカの福音書1章8-20節
小林剛男牧師

飛騨高山に刻まれた信仰の最期
これまで岐阜のキリシタンについて書いてきたものの、飛騨地方については触れる機会がなかった。正確に言えば、書くための材料を見いだせなかったと言うべきだろう。図書館などで飛騨のキリシタンに関する資料を探したが、ほとんど見つからなかった。(実のところ、東濃地方についても状況は同じである。)
そうした中で、小西マンショを調べる過程で、思いがけず飛騨との接点を見つけることができた。前回触れたように、マンショが飛騨高山で殉教したのではないかという説がある。あくまで「そのような説もある」という程度で、伝承に近いものではある。しかし、わずかでもキリシタンと飛騨との関わりを示す手がかりを得られたことは、筆者にとって大きな喜びであった。その思いで本稿を書き始めた。
小西マンショの最期の地については、現在も飛騨高山にまつわる伝承が残されている。複数のサイトでは殉教地「音羽」を摂津国の音羽とする説が紹介されているが、高山を流れる宮川周辺にも、かつて「音羽淵」と呼ばれた場所が存在し、古くからこの地こそがマンショの最期の地であったと語り継がれてきた。確証となる史料は乏しいものの、飛騨高山殉教説は地域に根付いた伝承として位置づけられている。
本稿は飛騨高山殉教説を確証するには至らないものの、当時の歴史的状況を踏まえて組み立てた一つの仮説(歴史的想像)としてお読みいただければ幸いである。
禁教下の最後の司祭
小西マンショという人物をご存じだろうか。天正遣欧使節の伊東マンショとは別人である。実を言えば、私自身は小西マンショの名を知ったのはごく最近のことである。加賀乙彦氏の小説『殉教者』―殉教者とはペトロ岐部カスイのことである―を読んだ際、作中に登場する人物として初めてその存在を知った。「マンショ」とは、「温和な」「柔和な」を意味するラテン語 Mansuetus(マンスエートゥス)に由来すると考えられている。
最近、直木賞作家・川越宗一氏の小説『パシヨン』を読み始めたのだが、本作ではこの小西マンショが主人公として描かれている。川越氏の作品を手に取るのは、『大日の使徒』以来であるが、同作はフランシスコ・ザビエルを日本へ導いたヤジローを描いた歴史小説であった。『パシヨン』は『大日の使徒』に先立って書かれた作品であり、川越氏にとって初のキリシタン小説である。

聖書箇所: マルコの福音書 9章14節~29節
梅澤愛伝道師

1.邪悪さからの救いという恵み
2 .不信仰に気づく恵み
3.祈るという恵み
1581(天正9)年、織田信忠の次男として誕生した織田秀則は、兄の秀信より2歳年少であった。兄同様に、1582(天正10)年の本能寺の変により祖父・信長と父・信忠を同時に失ったとき、彼はわずか1歳であった。その後の清洲会議において3歳で織田家の家督を継いだ兄・秀信とは異なり、次男である秀則は、家督を背負う兄を支え、一族の血脈を守る補佐役としての道を歩むこととなった。
秀則の資質を物語る記録が、宣教師ルイス・フロイスの日記に残されている。フロイスは秀則を「素性を知らずに話せば、その品格からドイツの貴族と判断してしまう」と記した。この評は、彼が武将としての勇猛さだけでなく、当時の支配層に求められた洗練された教養と立ち居振る舞いを、若くして身につけていたことを示しているのではないだろうか。秀信が織田家の家督継承者として周囲から強い制約を受けていたのに対し、秀則は一族の実務を担いつつも、制約を受けることは兄ほどではなかった。

1600(慶長5)年、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、秀信は石田三成らの誘いを受け西軍に加わった。これに対し、徳川家康率いる東軍は岐阜城攻略を目指し、木曽川を渡り美濃へと侵攻した。この前哨戦となったのが、現在の岐阜県笠松町で行われた「米野の戦い」である。秀信は自ら軍を率いて米野
の堤防に陣を張り、木曽川を渡河しようとする福島正則や池田輝政らの軍勢を迎え撃った。激しい戦いが繰り広げられたが、数に勝る東軍の猛攻の前に秀信軍は敗走し、岐阜城へと退却を余儀なくされた。この敗北は岐阜城陥落の決定打となり、秀信は改易(領地没収)の憂き目に遭うこととなった。



岐阜中納言となった秀信は、祖父・信長が築いた岐阜の町をさらに発展させるべく、内政にも力を注いだ。彼は楽市楽座の精神を引き継ぎ、商人の活動を保護するとともに、城下の道筋を整えるなどの整備を行った。特に金華山の麓から長良川に至る区域の整備や、寺社への寄進、検地の実施などを通じて、領国経営の基盤を固めていった。城下には宣教師を招き入れるための居住区も設けられ、軍事拠点としての岐阜城は、信仰と文化が交差する都市へと変貌していった。
しかし、当時の豊臣政権下における秀信の立場は、極めて微妙なものであった。秀吉という巨大な勢力の陰に隠れ、織田家という過去の遺産を背負わされた彼は、常に周囲の期待と警戒の目にさらされていたであろう。そのような状況下で、彼が心の拠り所を求めたのは、力による支配が全てであった戦国大名の価値観ではなく、キリスト教の教えであった。

織田秀信という名は、歴史の教科書では「三法師」という幼名で、あるいは関ヶ原の戦いにおける敗軍の将として、わずかに触れられるに過ぎない。しかし、その生涯を辿れば、戦国時代の終焉という激動のなかで、信長の正統なる後継者という重責と、キリスト教という新たな価値観の間で葛藤し続けた姿が見えてくる。

これまで織田信長とキリスト教、そしてイエズス会宣教師との関わりについて詳しく述べてきた。今回は、信長の嫡男であり後継者である織田信忠と、キリスト教との関わりについて記していきたい。
織田信忠は、1557(弘治3)年、織田信長の長男(嫡男)として尾張国に生まれた。幼名は奇妙丸である。1572(元亀3)年、近江国での対浅井氏戦で初陣を飾り、その後は伊勢長島平定や長篠の戦いなど、信長が進める主要な戦役に従軍して軍功を重ねた。1575(天正3)年、19歳の時に信長から織田家の家督を譲られ、同時に美濃・尾張の両国を相続して岐阜城主となった。翌1576(天正4)年には従三位左近衛中将に叙任され、名実ともに織田政権の後継者としての地位を確立した。
信長が安土城へ移った後、信忠は岐阜を拠点として東国方面の軍事・内政を一手に担い、1582(天正10)年の甲州征伐では総大将として武田氏を滅亡させるなど、優れた指揮能力を発揮した。信忠の統治は理知的かつ着実であり、父・信長の革新性を引き継ぎつつも、家臣団や領民に対しては節度ある態度で臨んだ。岐阜におけるキリスト教や宣教師への対応も、こうした彼の冷静な統治姿勢の一環として捉えることができるだろう。
織田信忠とキリスト教、そして岐阜の地を巡る関わりは、父・信長の影に隠れがちである。しかし当時の宣教師の記録やイエズス会年報を紐解くと、そこには若き城主としての節度ある振る舞いと、異文化に対する比較的冷静な態度が浮かび上がってくる。

織田信長に最も信頼された宣教師・オルガンティノ(3)
オルガンティノの生涯は、織田家三代との深い関わりの中にあった。父・信長の後を継いだ信忠とも親交を結んでいたが、信忠の嫡男である秀信(三法師)に対しては、その人生の節目において大きな役割を果たした。1595(文禄5)年、秀信はオルガンティノの熱心な導きによって洗礼を受け、受洗名を「ペトロ」とした。これには弟の秀則も同行し、兄弟そろっての受洗であったとされる。この出来事は、かつてキリスト教を庇護した信長の嫡孫がキリシタンとなった点において、オルガンティノ個人にとっても、また日本におけるイエズス会にとっても、大きな象徴的意味があった。秀信は岐阜城下での布教を公認し、教会の建設を許可するなど、オルガンティノを精神的師として厚く遇した。(秀信のことは、機会を改めて書いてみたいと思っている。)
“岐阜キリシタン小史(54)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑭―” の続きを読む