岐阜キリシタン小史(35)―大垣のキリシタン―

岐阜県西濃地方のキリシタンについては、これまで詳しく触れる機会がなかった。
西濃地方にもキリシタンがいたことは、『尾濃葉栗見聞集』に記録が残されている(「岐阜キリシタン小史(20)」参照)。また、「岐阜キリシタン小史(11)」の年表の中で、天正10(1582)年と慶長11(1606)年の出来事について言及したが、それ以外の記事を見つけられなかった。


今回は、最初にこの慶長11(1606)年の出来事に注目する。
大垣藩の初代藩主石川康通(1554-1607)は、徳川家康の重臣であった石川家成の長男として生まれ、徳川譜代大名として重要な地位にあった。また、康通の従兄には石川数正(後に豊臣家に仕える)がおり、彼はキリスト教に関心を持っていたとする説があるなど、石川家とキリシタンとの関わりは以前からあった可能性がある。康通は関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6年(1601年)に美濃大垣藩の初代藩主として5万石で入封した。
慶長11(1606)年、康通は正式にキリスト教に改宗し、「フランシスコ」という洗礼名を授かっている。しかし、改宗の翌年慶長12(1607)年に病のため亡くなった。その後、彼の妻が京都でキリシタンの支援者になったという記録が残されており、康通の死後も石川家とキリスト教徒の関係が続いていたことが窺える。
康通が受洗した同年に、稲葉政貞夫妻とその家臣50名も受洗している。稲葉家は将軍家光の乳母春日局とゆかりのある家であり、政貞は春日局の夫・稲葉正勝の養子である。彼は徳川家康に仕えて御小姓となり、美濃国十七条(現在の岐阜県瑞穂市十七条)で千石を拝領した。その後、尾張藩主徳川義直の家臣となっている。
そして、今回はもうひとつの別の出来事を紹介する。下記は『大垣宿問屋留書』の中の記事である。

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岐阜キリシタン小史(34)フロイスの見た岐阜城と岐阜の町

過日、今年(2025年)7月に岐阜公園内にオープンした「岐阜城楽市」に妻と初めて出かけた。そして隣接する岐阜市歴史博物館で、開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」を見学した。岐阜城というと、私は金華山山頂の天守を思い浮かべるが、この特別展では山麓にあった信長の居館跡の発掘についても詳しく紹介されており、大変興味深く観覧した。(図録もすばらしい!! ぜひ購入すべし!!)
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、この山麓居館に訪れたのは永禄12(1569)年のことであった。フロイスは京での伴天連追放令を受け、織田信長に庇護を求め岐阜にやってきた。フロイスはその著書『日本史』のなかで、信長の御殿について次のように記している。


「ポルトガルやインド、日本の他の地域で見てきた宮殿や居館の中でも、信長の御殿は精巧かつ豪華で、最も優れていた。御殿は非常に高い山の麓にあり、外側には巨大な石垣が築かれていた。入口には儀礼や演劇を行う屋敷があり、一階には15〜20の座敷が並び、5〜6つの庭園が設けられていた。池には魚が泳ぎ、中央の石には花や草木が生えていた。二階には信長の奥方や侍女たちの部屋があり、町側にも山側にも縁と見晴らし台があった。山の高さに達する三階には、非常に静かな茶室がいくつか設けられていた。三階や四階の見晴らし台からは町屋が一望できた」。


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