岐阜キリシタン小史(27)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑨―

  今回は前回の「切支丹の者斬罪之事」の続きである。前段は岐阜キリシタン小史(12)でも触れており、ご参照いただきたい。


(注1)尾張名所記云、(注2)名古屋橘町(注3)大佛榮國寺は國中の罪を犯せし者をいましむる獄門場なり、去る寬文五年三月此所に寺をいとなみ、淸涼庵と號し佛を安置し、千日念佛をはじむ。(注4)海邦名勝記云、慶長年中御城を築せ給ふ後千年の松原とて屠所なりしが、寬文の頃町屋に成て屠所は今(注5)土器野へ引移りぬ、耶蘇宗門等の徒專任餘人誅せられし跡とて一宇御建立あり、淸涼庵を(注6)中比瑞雲寺榮國寺と號す云々。

或書曰、家康公耶蘇宗御制禁、其砌は元和年中肥前國より駿河國へ罷越言上、(注7)吉利支丹之談義などは人を導き、其上に貧人には金銀を得させ、南蠻國の宗旨を弘め、後には國を奪ふ事加藤淸正きびしく御糺有之、後(注8)京都所司代板倉伊賀守工夫にて伴天連の一類の者二重俵に入て五ヶ所からげにして三條、四條、五條河原にさんづみにしければ、洛中見物人群集す、其一生合の者共一所につみかさなる、罪人(注9)善主麿を何程唱へても一味の飮食も天よりふらず地よりも湧ざれば、其日の未申の刻に到て皆宗門を轉びけり、此時より寺一札初りける、此節宗旨を改めざる輩は皆京、大坂、堺並諸國においても不殘斬罪にあふ者擧て數ふるにいとまあらずと。予按に(注10)美濃の大臼塚、(注11)尾張の大佛淸涼庵の昔物語も此砌の事にこそあらめ。

後附或日記云、元祿十丁丑年濃州可兒郡鹽方村百姓切支丹之者共御吟味の上笠松にて御仕置有之、此節(注12)大宇須の餘類丗五六人木曾川通り笠松の下、爰に埋てしるしの塚也。今尙大宇須塚とてしるしの塚に松あり。


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