岐阜キリシタン小史(25)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑦―

 今回で「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の箇所を終わる。今回の箇所に濃州塩村のキリシタン捕縛の記述がある。


其後二十四年を過て慶長十三丁未年(注1)肥前宇土郡八代には(注2)波伊耶牟が弟子有之耶蘇宗を弘め、其後宇土郡府内村寶光寺と云ふ禪刹を打破り宗門を弘む。此寺の住持信藏主東武へ下て訴へければ、御吟味の上御仕置あり、靜謐に及びけり。

其後十九年經て寬永三年の比、六十六部の類近江國徘徊して弘むる、是も程なく御仕置あり。

此時の御仕置は類門を一人づつ俵に入て首斗出して三十俵、五十俵つゝ積重ね、京都三條河原、大坂御城の馬場、堺七道の濱、此三ヶ所にて燒殺し、其內に宗門を改むる者は命助かりけり。何宗門と成て初て當寺旦那に紛なき印形差出す事初りぬ。

其後寬永十四年十月より肥前國島原と云ふ所に切支丹の一揆起て、天草四郞時貞を大將として合戰あり。翌年二月二十八日一揆の奴原三萬七千餘人誅戮有之、國々波立ず泰平の御代と治りけるこそ目出度けれ。委は天草軍記にしるす故に爰にもらしぬ。

(注3)正吏記曰、萬治四辛丑年四月朔日御旗本西尾權左衞門知行所濃州帷子庄鹽村に切支丹宗門の者共有之、尾張樣へ御賴有之、御奉行渡邊新左衞門、御足輕大將田邊四郞右衞門、御代官勝野太郞左衞門、御目付鳥居傳右衞門其外御目付兩人、手代捕手の者數十人被仰付名古屋を出て直に彼地に至り、切支丹の者一人も殘らず二十四人搦取、四日夜に連來る、又犬山の下五郞丸と云ふ所に伴天連一人有之、成瀨信濃守より搦取る、十人二十人所々より搦取來る者幾十人か不知、切支丹改有之悉御退治あり。


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岐阜キリシタン小史(24)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑥―

今回も「伴天連江州安土へ來る事及南蠻寺建立並滅亡之事」の続きであるが、今回取り上げる箇所は、史実と大きく異なることを先に記しておいた方がいいと思う。
本文中にある、1.信長がキリスト教を広めさせてしまったことを後悔した、2.信忠が、信長がキリスト教に寛容であったことに対して諫言した、3.秀吉が増田長盛と長束正家に命じて南蛮寺を破却させた、4.宣教師ヴァリニャーノが肥前に逃亡した、これらはいずれも歴史的事実に反する。
ということで今回の内容は、作者吉田正直が故意にキリスト教を貶めようという意図があるのではないかと思いたくなる。しかし、前回の耶蘇教に入信する様子の記述と同様に、当時の民衆がキリスト教をどのようにとらえていたかということでは興味深い。我慢してお付き合い願いたい。


天正三年五月十一日信長公京都を立玉ひて十三日に岐阜に到着し玉ふ。先年伴天連來りし時、(注1)文教院の諫を不用して耶蘇宗を思ひのまゝに弘めさせ今後悔なり。此儘にさし置きなば一天下難儀なる故に、南蠻寺を滅亡の沙汰に及びぬ。其節(注2)徳善院進み出て、國中耶蘇に歸依のモノ多し、南蠻寺を滅亡に及びなば門徒蜂起する事覺束なしと云ひ難し。依之滅亡の事止みぬ。然處信長公亡び給ふ故に、猶耶蘇宗流行に及びぬ。
然處太閤秀吉公自曰、(注3)增田右衛門尉、(注4)長束大藏兩人へ被仰付天正十三乙酉迄(注5)十八年の間耶蘇宗流行す。增田長束三千餘騎引率南蠻寺へ亂入、二人の伴天連、二人の(注6)伊留摩牟を召捕て網乗物に入る間に門徒不殘散々に逃失けり、二時斗に滅亡せり。生捕四人の者は本國へぞ歸しける、門徒の内改宗の者は其分に差置き、歸伏せざる者は不殘磔に行はれけり。扨南蠻寺執行(注7)波伊耶牟は先達而寺を逃げ肥前國に下り密に身を隱し居たりしが、年を經て天草に來て、重て此宗門を弘めけるよし。


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