チャペルニュース ChapelNews

 最近、春になると「イースター」という言葉を耳にする機会が増えました。お菓子のパッケージでも、「イースターパッケージ」と呼んで、ウサギやひよ子の描かれた絵のプリントされたお菓子がお店に並びます。
このイースターというのは、ヨーロッパの春のお祭りというイメージが生まれつつあるのかもしれません。 私自身、3年半の間ドイツで生活したことがあります。ドイツの冬はとても長く、日本人の私からすると、体感的には10月ごろから3月末までは日本でいう冬の季節というイメージがあります。
この季節になると、私は不思議と日本のセミの音が懐かしくなります。あまりにも寒い日 が続くので、セミの鳴き声を聞きながら汗を流すあのベタベタした嫌な感じが、恋しくなるのです。
私が住んでいた地域はそれほど雪が降る地域ではありませんでしたが、暗く寒い日々が長く続くので、本当に春を待ち焦がれる気持ちになるのです。 

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笠松キリスト教会のごあんない

笠松キリスト教会は、聖書信仰に根ざすプロテスタントの教会です
1957年、今から66年前、ドイツのジャーマン・アライアンス・ミッション(GAM) から派遣された宣教師によって建て上げられ、以来、生ける神さまのみことばをこの地の皆さまにお伝えしてまいりました。
私たちは礼拝や聖書を通して、私たちを造ってくださった神さまの愛と救い主イエスさまの恵みをいただいています。
あなたにもぜひその恵みを受け取っていただきたいと願っています。

主日礼拝 毎週日曜 10:30-11:30 
教会学校 毎週日曜  9:45-10:20 
聖書の学びと祈り会 毎週水曜 19:30-20:30
毎週木曜        10:30-11:30
 (水・木曜日ともにZoom併用)

当教会はバリアフリー対応です。
車椅子ご使用の方もぜひお越しください。駐車場が教会の隣にございます。
当教会はエホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。

バリアフリー化されています。車いすで駐車場から移動できます。
スロープ・手すりも設置されています。
玄関には折りたたみ椅子付き手すりも設置
礼拝堂 晴れた日は明るい光も差し込みます。

主日礼拝メッセージ「あなたはどこにいるのか?」2025/03/23

聖書箇所:創世記3章1-24節 

鴨下直樹牧師

「あなたはどこにいるのか?」 創世記3章1-24節 2025.03.23

今、教会の暦では受難節を迎えています。主イエスの十字架の苦しみを心に刻む季節を過ごしているのです。そんな中で今朝は、創世記の第3章に入ります。ここには人間の罪のことが記されています。

先週の礼拝でもお話ししましたけれども、神は人をそれぞれ向かい合う存在として創造してくださいました。神に創造された人間、男と女は、互いに助け手として足りない部分を補い合う存在として創られました。それは、まるで三位一体の神ご自身の姿に似ています。

ところが、創世記第3章の御言葉は、そのようなお互いが、互いに攻め合い、責任をなすり合うようになってしまったと書かれています。男と女のみならず、神との関係までもが破壊されてしまいます。

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主日礼拝メッセージ「男と女、互いの助け手として」2025/03/16

聖書箇所:創世記2章4-25節
鴨下直樹牧師

創世記 2章4節―25節 「男と女、互いの助け手として」 説教原稿 

2025.03.16 鴨下直樹

 この朝から、創世記の2章以下に進んでまいります。この2章を読みますと、本当に創世記は、大変美しい文章で書かれているということが良く分かります。それはまるで、映画を見ているかのようです。この朝、私たちに与えられているテキストは、創世記1章と内容が少し異なりまして。この創世記2章4節からまた、もう一度で別の視点で神の創造が物語られるのです。この第1章を「天地創造物語」と名づけるとすれば、この第2章の4節から3章の終りまでを「エデンの園の物語」と名づけることができます。

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主日礼拝メッセージ 使徒信条による信仰8「十字架につけられた主」2025/03/09

聖書箇所:マタイの福音書27章45-56節
鴨下直樹牧師

使徒信条による信仰 8
マタイの福音書27章45-56節 「十字架につけられた主」
2024.03.09
鴨下直樹

使徒信条の学びも、今日でようやく「十字架」の信仰告白までまいりました。
今、私は「ようやく」と言いましたけれども、「やっと」と言っていいかも知れません。
「十字架」を語ることを楽しみにしていました。十字架を語る、これが牧師の務めであると言うこともできるかもしれません。主イエスの十字架は、これまでも聖餐式の度に何度も語ってきたと言うこともできます。あるいは、いつもの説教においても、背後では十字架を念頭に置いて説教しているとも言えます。そういう意味ではいつも「十字架」を語っていると言うことができるのかもしれません。「十字架」というのは、教会のシンボルですし、また「十字架と復活」はキリスト教教理の中心です。「十字架と復活」を語るというのは、牧師の生涯をもってしても、この十字架を語りきることはできないのではないか、そんな思いにもなります。それほど、豊かな内容がここにはあります。何度語ったとしても、あらゆる方面から語ったとしても十分に語りきることはできない、それが「十字架」の信仰だと言ってもよいと私は思います。

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