岐阜キリシタン小史(8)

 秀吉、江戸幕府、そして明治政府へと続く禁教令②―

 前回に続き、引き続き禁教令について記してみたい。

⑥【江戸幕府】鎖国令(二港制限令)と禁教令 1619(元和5)年

 二代将軍秀忠によるもの。キリシタンの投獄、処刑が徹底的に行われた。➡その後、日本に潜入しようとしていた宣教師2名が発見され、既に捕らえられていた宣教師やクリスチャン、匿っていた者たちの計55名が処刑された(元和の大殉教)。

⑦【江戸幕府】島原の乱後

幕府は五人組制度や寺請制度、さらには島原の乱以後の訴人報償制によりキリシタンの取締りを強化した。棄教した場合には、「南蛮誓詞」(ころび証文)に血判させ、本人はもちろん親族、子孫まで監視した。

南蛮誓詞
南蛮誓詞

【「南蛮誓詞」】(現代訳)「‥‥‥伴天連(神父)来り、信仰告白のすすめをしても妄想を起こしません。右の旨を背きました時は、天の父なる神、御子キリスト、聖霊、聖人を始め奉り聖マリア、諸々の天使、福者、聖ペテロ、聖パウロ、また、教父の定め、その外、教会にある七つの聖礼典の罰を蒙り、天使の恩寵は絶え果て、ユダのように信頼を失い、後悔の一念もきざさずして、人々の嘲りとなり、終に頓いたし、地獄の苦しみにせめられ、諸天狗の手に渡り五衰(仏語、欲界の天人も臨終に免れえないという五種の衰相)、三熱(仏語、蛇や竜などの受ける三つの苦悩)の苦しみを受けます。故に罪の告白と誓約をいたします。」(『岐阜キリスト教史 日本伝道覚書』水垣清著より)。「もし棄教の誓を破ったならば、口先では転ぶと言っても、内心ひそかに天主を信じているような場合は、天主の神もお前を許さないであろうという棄教者の良心に訴えるという徹底した意味があると考えられる。また、念のために日本の神々に誓わせて、その信仰の内面的に逃げ道を封じたものである」と同書の水垣氏は解説している。

⑧【明治政府】五榜の掲示 1868(慶應4)年

五榜の掲示 第四札(複製)
五榜の掲示 第四札(複製)

 江戸幕府の政策を継承し、「切支丹邪宗門厳禁」としたため、信徒への弾圧は続くこととなった。➡明治政府がキリスト教の布教活動を公式に認めたのは、これより31年後の1899(明治32)年のことであった。

 こうしての禁教令を見てくると、それぞれの禁教令は時の権力者による政治的な思いや、宗教権力者のキリスト教を一方的に排除しようとする思いが透けて見える。平和を望まれた主イエスさまのみこころとは何と遠いことだろうか。イエスさまのみ教えとはまったく相容れない、この世的な思いがこれらにはある。

 今を生きる私たちは、このイエスさまのみこころをまた知らない人々に、主イエスの教えを伝えていかなくてはならない、福音の喜びを伝えていかなくてはならない。過去の歴史に徒に心捉われることなく、恐れず、あきらめてはならないのではないかとあらためて思わされる。

文:笠松キリスト教会 K

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