―美濃初めてのキリシタン・山田庄左衛門―
筆者はこの連載を思いつくままに書いているため、順序が必ずしも時代順になっていないことをお許しいただきたい。今回は信長が岐阜に入城する(1567(永禄)10年)以前のことになる。
土岐頼芸(よりなり)(1502~1582)という人物がいた。頼芸は土岐氏の当主であった兄頼武(よりたけ)とその子頼充(よりみつ)と対立し、美濃国や周辺国を騒乱に巻き込んだ末、土岐氏当主となり美濃守護となった。そのことに功があったのが、斎藤道三であった。しかし、頼芸はその道三によって美濃国から追放されてしまう。さらにその道三もその子義龍に殺された。義龍は道三の子ではなく頼芸の子だというのが、父子対立の原因であり、義龍自身も土岐氏の後胤と広言していた。(司馬遼太郎『国盗り物語』、NHK大河ドラマの「麒麟がいく」でも紹介されていた。)
さて、前置きが長くなったが、今回紹介する山田庄左衛門はこの義龍の家臣であった。この庄左衛門が同じく義龍の家臣であった小池備前守とともに京都に赴いた。1560(永禄3)年のことである。目的は僧になっていた弟を義龍が京都で高い地位につけさせるためであり、庄左衛門らはこの付き人として同道した。(水垣清氏の『岐阜キリスト教史 日本伝道覚書』には、二名は義龍の弟ではなく頼芸の弟に随行したとある。)庄左衛門は若いときに比叡山で天台宗を学んだが、満足できず浄土宗を学んだ。そして浄土宗にも満足できず真言宗や神道を学び、それにもあきたらず、臨在宗に移ったという人物で、深く仏教に精通した著名人であったという。
この庄左衛門が京都で伴天連のうわさを聞き、論破してやろうと南蛮寺に向かった。
そこで修道士(イルマン)のロレンソと会った。(このロレンソは長崎・平戸出身の盲目の元琵琶法師であった。)庄左衛門は「禅宗には『無』と名付ける本質があるが、その『無』についてキリスト教ではどう考えているのか」と質した。するとロレンソは「それは私たちが『デウス』と呼んでいる方と比べると無限の隔たりがある。デウスは始めもなく、終わりもなく、無限の権能と知恵と善性を持つ完全な方である」と説明をした。
庄左衛門は感嘆し、さらに十一の質問をし、この質問に回答したならば、自分はキリシタンになると言った。(この質問には宣教師ヴィレラが担当した。)庄左衛門はその回答に非常に満足して、翌日も教会を訪れて熱心に心ゆくまで質問を繰り返し、やがて庄左衛門と小池備後守はキリシタンになった。そしていよいよ美濃に帰ることとなり、キリシタンの教理、戒律、洗礼の授け方、葬儀規則を文書にして持ち帰った。そして、美濃にキリシタン伝道が受け入れられるようになったなら、宣教師ヴィエラと修道士ロレンソを迎えようと約束したという。(フロイス『日本史』による)
庄左衛門が岐阜に帰ったとき、有名な彼らがキリシタンに改宗したことは大評判となり、彼らの改宗は美濃の禅宗にとって一大打撃となった。記録によると庄左衛門は禅宗の僧たちの憎しみをかい、数年後路上で待ち伏せられて暗殺されたということである。
彼は美濃のキリシタンとしての先駆者となり、庄左衛門の生前にはロレンソを美濃の迎えることができなかったが、数年後の1569(永禄12)年、ロレンソはフロイスと岐阜の地に来て信長と会うことになる。(参考文献:『尾張と美濃のキリシタン』横山住雄著、『岐阜キリスト教史 日本伝道覚書』水垣清著)
文:笠松キリスト教会 K