岐阜キリシタン小史(3)

 ―迫害のはじまり―

 岐阜県可児かに市は岐阜市の東、約30km、岐阜市から車で1時間弱のところにある。そこに「塩しお」という地区がある。同盟福音・可児キリスト教会(可児市禅台寺)から西に約4㎞、鳩吹山の東側である。1661(寛文元)年、この地に潜伏していたキリシタン24名が捕縛された。現在この地にはカトリック名古屋教区の顕彰碑が建てられている。少し長くなるが顕彰碑の碑文を以下に記す。

歴代の岐阜城主はキリシタン信仰に寛容であり、中には自らキリシタンになった城主もいたため、この美濃地方にはキリシタン信仰が広く受け入れられていました。しかし、1613(慶長18)年、徳川幕府が禁教令を出してからは、多くのキリシタンが捕縛され処刑されるようになりました。そして1661(寛文元)年、尾張に隣接する可児郡塩村にキリシタン潜伏が発覚しました。この地を領する旗本の林氏は、江戸から尾張藩にキリシタン取締りを依頼しました。尾張藩は1631(寛永8)年以来、キリシタンを検挙処刑していましたが、これを受けて急遽キリシタン奉行を創設して宗門改めを実施しました。これが「濃尾崩れ」と言われるキリシタンの大量検挙の始まりとなりました。こうして塩村、太田村等九ヵ村及び尾張北部の諸村から多数のキリシタンが尾張藩によって捕縛され、1665(寛文4)年、中心人物と見なされた200余名が、尾張藩の千本松原で処刑されました。尾張藩主徳川光友公は刑場を土器野かわらけの(現清須市)に移し、千本松原の刑場後に菩提のために*栄国寺を建立しました。寛文年間(1660年代)には、高木村(現扶桑町高木)、高田村(現名古屋市瑞穂区瑞穂町)、笠松代官の陣屋等で2,000名を超えるキリシタンが処刑されました。(中略)ここに濃尾崩れて信仰のために命を捧げた殉教者たちを称えてこの碑を建立します。
*筆者注…栄国寺は名古屋市中区橘にある東別院の北に位置する。境内には切支丹遺蹟博物館がある。
2021年可児市塩地区に建てられた
カトリック名古屋教区の顕彰碑

 信長の時代にまで遡れば、美濃・尾張はもともとキリスト教に対して手厚い保護がされた地であった。信長とその子信忠が岐阜城下に宣教師らを招き、教会を建て、キリスト教に深い理解を示したこと、信忠の遺児三法師(後の秀信)は、1595(文禄4)年、宣教師オルガンティノから洗礼を受け、城下に教会堂、病院、孤児院を建ててキリスト教化を進めたことは前回までに触れた。このことにより、領内に多くのキリシタンが生まれた。その後も徳川家康の四男松平忠吉(1580~1617)も尾張・清洲藩主時代にキリスト教を庇護した。また、岐阜・加納城主奥平忠政(1580~1614、母は家康の娘亀姫)は1612(慶長17)年にフランシスコ会の宣教師から洗礼を受けたという記録がある。


 その一方、秀吉時代から燻り続けていたキリシタンの弾圧は、島原の乱(1637(寛永14)年)によって一気に激しくなった。また、これを機に江戸幕府は鎖国政策を一層強化していくことになる。島原の乱の翌年1638年、幕府はキリシタン禁札を掲げ、宗門改と寺請制度によってキリシタンの一掃を図った。
 上記の可児・塩地区のキリシタン捕縛はこのような最中で行われた。いわゆる「濃尾崩れ」の始まりであった。その後、この地以外の愛知県丹羽郡を含む広い地域から多くのキリシタンが捕縛された。その取り調べは熾烈を極め、1665(寛文4)年には207名が斬首され、幕府直轄地で陣屋のあった笠松(現在の岐阜県笠松町)では10名が磔刑に処せられた。

岐阜県笠松町の大臼塚跡


 その後1697(元禄10)年には同じ笠松で30余人が斬首された。「元禄十年、可児郡塩方村の百姓切支丹という者、吟味の上、笠松にて御仕置あり。此節大宇須の余類三十五、六人木曽川通り笠松の下に埋めて塚を築く、今尚大宇須でうす塚とて、しるしの松あり、里人伝へて切支丹の輩を斬罪にせし、旧跡なりと言ふ。古老の伝説に、切支丹の者、多く斬罪の節、歴々の人もありし由、皆よろこびて討たれたりける由」(『岐阜キリスト教史 日本伝道覚書』水垣清著)とある。この処刑地は、「大臼塚」として現在も岐阜県笠松町の木曽川河川敷(木曽川橋西詰の南)に残されている。大臼(だいうす)の名はデウスに由来する。

文:笠松キリスト教会 K

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