―信長・信忠の遺児たちとキリスト教-
1582(天正10)年、本能寺の変で信長・信忠親子が打たれた後も、信長の遺児たちによってキリスト教の教えは引き継がれていった。
信長の二男、織田信雄(のぶかつ)は尾張清洲の領主を経て、1583(天正11)年、伊勢長島城主となった人物である。彼は信長の弟である織田長益(ながます別名有楽斎)の勧めで1588(天正16)年洗礼を受け、キリシタンとなった。
前後するが、この長益は、織田信秀の十一男であり、信長の弟にあたる。千利休の高弟であり、利休十哲の一人でもある。この長益は信雄の受洗と同年の1588年に洗礼入信している。洗礼名はジョアンといい、この名をとって「如庵」という名の茶室を設計した。
ちなみにこの茶室は愛知県の犬山城の東にあるホテル敷地内の庭園に移築されているが、利休の「侘び寂び」を体現した名茶室と言われ、国宝に指定されている。
さて、信長の遺児の話に戻る。信長の三男信孝は信仰心が厚く、家臣を説得してキリシタンに改宗させたり、宣教師からもらったロザリオを普段から携帯していたといわれている。一説には洗礼を受けたという説もあるが、本能寺の変後の混乱などのため洗礼を受けずに他界したという説もあり、真偽のほどはわからない。また、信長の六男信秀(信長の父と同名)は豊臣秀吉に仕えたが、大阪の修道院に赴きキリスト教の教義を学んで改宗した。
信長の孫にあたる秀信(信忠の長男)は幼名を三法師といい、本能寺の変後の清須会議で織田家の後継者に選ばれた。
その後秀吉によって1584(天正12)年、岐阜城主に封ぜられた。1595(文禄4)年、弟の秀則と共に岐阜で宣教師オルガンティノより洗礼を受け、城下には教会、病院、孤児院が建てられ、領内には多くのキリシタンが生まれた。秀吉が死去すると、キリシタンであることから宣教師たちから天下人となることを期待されたとのことである。1596(慶長元)年、秀信は中納言に叙せられ岐阜中納言と呼ばれた。
残念ながら、この秀信は関ケ原の戦いの前哨戦といわれる米野の戦い(岐阜県笠松町)で敗れ、家康によって高野山に追放された。その後1605(慶長10)年、この地で没している。この秀信については、別の機会に記すこととしたい。
文:笠松キリスト教会 K